3月末、東京・有楽町に開業予定の大型複合施設「東京ミッドタウン日比谷(以下ミッドタウン日比谷)」。都心最大級のシネマコンプレックスや、飲食店をはじめ初出店・新業態のテナントも数多く、東京の新たなランドマークとして注目されそうだ。しかし、開発主体である三井不動産の日比谷エリア再開発構想は、ほんの序章に過ぎないという。『月刊BOSS』編集委員の河野圭祐氏がレポートする。
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東京・日比谷はある意味、不思議な街だ。日比谷という名称は駅名にはあっても、日比谷という住所は存在しない。三井不動産が手がけて竣工したミッドタウン日比谷の高層ビルも、番地は有楽町1丁目である。
三井不動産といえば、同社の本社も入居する日本橋三井タワーをはじめとして、日本橋エリアが“三井村”であることはよく知られている。ライバルの三菱地所が、丸の内で多くの高層ビルを所有していることから、“三菱村”と称されているのと同じ理屈だ。
だが、丸の内に比べて日本橋エリアは再開発では遅れをとった。同地には古くからの老舗商店も集積し、土地の権利関係が複雑で地権者との合意形成に時間がかかったためだ。
再開発が本格的に動き出したのは2000年代に入ってからで、旧東急百貨店日本橋店がコレド日本橋として生まれ変わったのが2004年。それまでの日本橋界隈は、週末になると閑散とした寂しい街並みだったことは否定できない。
翌2005年に前述の日本橋三井タワーが竣工し、2010年にコレド室町、2014年にコレド室町の2&3が完成している。このほか、今秋には髙島屋日本橋店に隣接する高層ビルが竣工するほか、日本橋三井タワーの隣接地などでも開発が進み、三井不動産はルーツで牙城でもある日本橋での賑わいを大幅に向上させ、面展開を完成させつつある。
一方で、冒頭で触れた日比谷エリアは、三井不動産にとって“第2のルーツ”ともいうべき、ゆかりの深い土地だ。当地にはかつて、「三井有楽町集会所」と呼ばれた大屋敷があり、この集会所は三井財閥のグループ経営会議、あるいは方針を打ち合わせる場所として活用されていた。また、国賓や外交官をもてなすために明治政府がつくった社交場、「鹿鳴館」も当地にあった。
その後、三井集会所の跡地に建ったのが三信ビル(1930年竣工)と日比谷三井ビル(1960年竣工)。特に日比谷三井ビルは完成当時、東洋一のビルと言われ、4年後には東京五輪が開催されている。
今回竣工したミッドタウン日比谷も、2年後の夏には再び東京五輪を迎えることになるが、同ビルは地上35階、地下4階、高さは192mで、丸の内の新丸ビルや八重洲のグラントウキョウのビルに匹敵する大きさ。隣接する銀座が景観上、高層ビルが建てられないエリアになっているだけに、ミッドタウン日比谷の威容は際立っているのだ。