この女人禁制は、能力論ではなく、宗教的な「穢れ(けがれ)」思想から来ている。能力論なら科学的論証によって改革を促すこともできようが、宗教に対して科学的論証は無意味だ。神事に起源を持つ相撲であれば、改革は容易ではない。
この女人禁制を因習・宗教・天皇制・政治権力という枠組でとらえる人も多かろうが、ことはそう単純ではない。
佐藤健『南伝仏教の旅』(中公新書)という興味深い旅行記がある。1989年の刊行だから、情報は少し古いし、何より古書価が高くなっている。それでも読んで損はない好著だ。
この中にタイについての一章がある。タイでは憲法で信教の自由は認められているが、小乗仏教(いわゆる上座部仏教)が国教となっている。国王は仏教の守護者であり、国民の九割以上が熱心な仏教徒である。国民の王室への敬慕の念も強い。しかし、そうであるからこそ、我々にとって意外に思えることもある。
プミポン国王(当時)の二女シリントーン王女は、美貌と気品で絶大な人気を誇る。王女が国民的功労者を表彰する時は延々二時間もテレビ中継が行なわれる。表彰される人は恭しく拝礼し賞を戴く。しかし、受賞者が僧侶の場合はちがう。僧侶は一礼もせず、手ずから賞品を受け取ることもしない。逆に王女が僧侶に拝礼し、賞を「もらっていただく」のだ。
佐藤は、ここに王権と宗教権威の拮抗関係を見る。しかし、さらに穢れ思想も指摘しないわけにはいかない。僧侶は、たとえ王女であろうと「穢れである女」に触れられないのだ。最も反動的である女性蔑視思想が王権思想に楔を打ち込む逆説がここにある。
●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。著書に『バカにつける薬』『つぎはぎ仏教入門』など多数。
※週刊ポスト2018年3月9日号