いよいよセンバツ記念大会。マンガのような快進撃で甲子園に名乗りを上げたのが宮崎県立富島高校だ。同校は3月29日、石川・星稜と初戦を迎える。1回戦コールド負けが当たり前だった同校を変えたのが、5年前に赴任した濱田登監督。いかにして奇跡は起こったのか、日本唯一のアマチュア球児向けフリーマガジン「サムライベースボール」発行人の古内義明氏がその秘密に迫った。
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──創立102年で、甲子園初出場おめでとうございます。地元はかなりの盛り上がりですよね。
濱田監督: 野球部のOBですら、「あの富校が!?」という話も聞くし、書留で寄付を送ってくれる方の手紙の中に、「死ぬ前に甲子園に行けるとは思っていませんでした」と書いてあったり。皆さん、まさかあの富校(富島高校の地元の呼び名)が、という風に思っているはずです(笑)。
──2008年母校の宮崎商を率いて39年ぶりの甲子園を達成。鳴り物入りで2013年4月に赴任しましたが野球部の第一印象は?
濱田監督:ゼロからのスタートではなく、マイナスからでした。内示を受けて観戦した県大会1回戦の西都商戦は、0対10の6回コールド負け。新チームは部員わずか11人。土日なのに部活をする部は少なく、学校が閑散としていたのには、ビックリしましたね。グランドとは呼べないような校庭に黒土を入れてトンボの整備を繰り返して、お金もないので保護者の方に手伝って、ベンチも作ってもらいました。地元企業の富高OBからの照明設備や用具の寄付を頂いたり、有志の方からも寄付を頂き、いまのような所までたどりつきましたね。
──就任挨拶で、「3年で九州大会。4年で甲子園出場」と言って、失笑ムードになったのは本当ですか?
濱田監督:本当です。歓迎会の席は、確かに失笑の空気に包まれましたね(笑)。
──ご自身を鼓舞するための発言か、それとも覚悟の宣言だったのでしょうか。
濱田監督:母校の宮崎商業で10年間監督をやった際も、最初は前任者の方がいました。自分のやりたい事がやれるチームになるには時間がかかって、5年目にようやく甲子園に行きました。それでも伝統があって、人材が集まる宮崎商業だから、甲子園に行って当たり前という空気がありました。
──正当な評価を得るのはなかなか難しいですね。
濱田監督:ならば、何の歴史もない学校に行って、自分の好きなように一からチームを作りたいと考えるようになりました。最初からスピード感をもってやらないと、甲子園に行けるチームにはならないだろうと感じていました。富高に来た時は監督や部長もいませんでしたから、私が監督になって、本当に根こそぎ自分のやりたいように変えていかないと、チームとして成り立っていかないだろうという危機感もあったし、あの発言は自分を鼓舞するためでもありました。ただ皆さんに宣言することで、「自分は本気なんだ」というのを伝えたい思いもありました。