今回角打ちを楽しませてもらったのは、大正7年の創業で100年の歴史を誇る北九州市の『藤高(ふじたか)酒店』。
「広島の小さな造り酒屋にいた私の祖父が、酒の販路を広げるためにここに来て店を構えたんです」と、3代目主人の藤髙毅さん(71歳)。
店の場所は、古(いにしえ)には洞海(くきのうみ)と呼ばれ、平安の歌人・紀貫之の歌にも詠まれている洞海湾(どうかいわん)の近く。
この東西に細長い湾をぐるりと取り囲んでいるのが、製鉄の街として知られる八幡、若松、戸畑の北九州市3地区だ。
明治後期以後は、日本の急速な近代化の流れのなかで躍動し、北九州工業地帯の発展に多大な貢献をしてきた。
街の隆盛とともに、製鉄関係で働く男たちの一瞬の止まり木、あるいは小さなオアシスとして、いつしか多くの酒屋が店を開き、角打ちに対応するようになっていった。正確な統計こそ出ていないが、昭和の全盛時にはその数は300店を超えていたといわれ、平成の現在でも、角打ちのできる酒屋が150~200店営業を続けているとされる。
同酒店はそのうちの一つというわけだ。
JR戸畑駅から10分ほど歩く間、湾を跨(また)いで若松と戸畑を結ぶ若戸(わかと)大橋が視界に映る。工業地帯のエネルギーと情熱を象徴する色として選ばれたという朱色が目にも鮮やかだ。昭和37年に開通したその天空の橋の戸畑側たもとに店はある。
店内に入るや否や、3代目よりまじめに通っていると豪語する、常連客が歴史を語ってくれた。
「今年70歳になります。“製鉄”の構内に入って働き出したのが18歳。そして二十歳からここで飲み始めて50年ですよ。“製鉄”と藤髙が私の人生ですね」(70代、製鉄OB)
彼らは、決して会社とか仕事場とは言わず、社名も口に出すことはない。「製鉄にいる、製鉄の人間」、それが当たり前の言い方なのだ。
「製鉄の門を出るとすぐここだからね。昭和の頃は、門を出るとみんなここへ寄っていたんじゃないかな。カウンターに横向きに詰めて並んで、塩をひとなめしてコップ一杯の酒をピッと飲んで、10秒で出ていくなんてのが、普通でしたよ。今はそこまでのあわただしさがなくて、酒を味わって楽しんで飲めるような時代になりましたね」(前出、製鉄OB)
とは言っても、夕刻を過ぎれば、製鉄以外の業種に働いている人々も含めて、けっこうな数の常連客が相変わらず集まってくる。
その理由は、すべての客をまったり気分に包み込んでしまう、女将・藤高須賀子さん(57歳)の陽気な笑い声があるからだと、誰もが口にする。いわばこの店の名物なのだ。