東に町井久之あれば、西に柳川次郎あり。戦後在日社会の伝説となった二人の男。ともに1923年生まれ。前者は東声会というヤクザを率い、後に事業家に転身した。六本木にナイトクラブをオープンさせ、釜山─下関を繋ぐ釜関フェリーの設立者としても知られる。後者の柳川も武闘派ヤクザ、柳川組の組長として恐れられ、後に堅気となると日本と韓国の橋渡しに生涯を捧げた。
しかし、町井のように事業欲を見せることはなかっただけに、その功績は今なお計りづらい。複雑な歴史を持つ日韓両国、とくに戦後は意志の疎通すら難しく、オモテ、ウラさまざまな人間が柳川を頼り、柳川もそれに応えた。ジャーナリストの竹中明洋氏が、柳川の足跡を辿った。
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そのグランドピアノは舞台袖のカーテンに隠れ、表面には埃が薄く積もっていた。しばらく手入れされた気配はなく、ただ所在なさそうにフロアの一画を占めていた。
大阪・中崎町の韓国人会館。民団大阪の本部が入るこの建物の6階ホールにピアノが置かれている。おそらくは1980年代半ばからあったはずだが、正確なことは記録に残っていない。だが、「ヤクザからピアノをもらっていいのか、と大騒ぎになった」といった寄贈当時の騒動は、関係者たちに記憶されている。ピアノを贈ったのは柳川次郎。在日韓国人で本名を梁元錫(ヤンウォンソク)という。
柳川といえば、終戦直後の大阪で暴力によって頭角を現し、山口組きっての武闘派・柳川組の初代組長となった男である。「殺しの柳川」の異名で知られる。一方でヤクザから足を洗った後は、血と暴力の過去を贖罪するかのように日韓交流に生涯を捧げた。
柳川の下で1978年に右翼団体「亜細亜民族同盟」を立ち上げた佐野一郎は、日本の首相として初となる1983年の中曽根康弘による訪韓について「中曽根と全斗煥を結びつけたのは我々だ」と生前に話していた。暴力の世界に生きたはずの男が海峡を挟んだ二つの国を股にかけた時代。その光と闇が織りなす旋律を本連載では綴りたい。