角界の最高位である「横綱」の地位は重い。横綱らしい相撲が取れなくなれば、選択肢は引退しかない。かつての大横綱たちの引き際は、今とは比べものにならないほど潔かった。
たとえば、後に理事長まで務めた第44代横綱・栃錦は、“惜しまれながらの引退”を選んだ。
「1958年後半に不調に陥りましたが1959年3月場所で復活優勝を果たし、“奇跡”と称賛された。それから1960年3月場所までの7場所で優勝3回、95勝10敗という成績を収め、“第二の黄金期”といわれた。ところが、翌1960年5月場所で平幕の時津山と安念山に連敗すると、スパッと引退を決断した。当時、栃錦は35歳で、現役続行を望む声も多かったが、師匠(元横綱・栃木山)から横綱昇進時に“引退する時は桜が散るごとく、みなに惜しまれつつ潔く……”と教え込まれていたので、それに従ったといわれている」(ベテランの相撲ジャーナリスト)
栃錦とともに「栃若時代」を築いた第45代横綱の初代若乃花も同様だった。1960年9月場所の10回目の優勝を最後に賜杯から遠ざかると、1962年3月場所の初日に当時・小結の栃光に敗れたところで引退を表明した。
「若乃花はとりわけ、地位に対する責任感が強い力士だった。“八百長に投げはない”が口癖で、左四つからの右上手投げを得意としていました。ただ、衰えたといっても、引退直前の場所には11勝をあげています。序盤で黒星を続けては途中休場を繰り返す今の横綱たちとは全く違っていた」(同前)