爽やかに晴れ渡る空の下、男たちを乗せた小さな蒸気機関車が汽笛を鳴らして動き始めると、待ちかねたかのように歓声が沸き起こった。5月20日、千葉・成田空港にほど近い観光牧場「成田ゆめ牧場」の一角でお披露目されたのは、亀の甲羅のような水タンクをボイラーに載せたユニークなスタイルから「亀の子」の愛称で親しまれる、真新しい「機関車7号」だった。
完成させたのは、「軽便(けいべん)鉄道」の保存活動を担うボランティア団体「羅須地人(らすちじん)鉄道協会」。「軽便鉄道」とは国鉄(現JR)よりも狭い幅の線路を採用した鉄道で、建設費が安かったことから、かつては日本の隅々にまで敷設された。「羅須地人鉄道協会」は、心の中にある理想の軽便鉄道の情景を市民の力で再現する保存鉄道協会として1973年に結成された。このちょっと変わった名称は、宮沢賢治の農民芸術運動「羅須地人協会」から命名したもので、会社員、学生、教師、本職の鉄道マンなど、現在10代から70代まで約50名のメンバーが参加している。
「羅須地人鉄道協会」は数々の機関車や車両を保有しているが、協会にとって6両目となる蒸気機関車「亀の子」の製作を手がけたのは、代表幹事でもある歯科医師・角田幸弘氏(62)だった。高校時代、軽便鉄道ファンだった角田氏は、当時創刊されたばかりの模型雑誌『とれいん』(1975年1月号)に記事を寄稿、その挿絵には美しい風景の中を走る軽便サイズの小さな機関車が描かれていた。協会に所属していた角田氏にとって、この挿絵の機関車を自らの手で作り上げることは長年の夢だった。
「國學院久我山高校で入った鉄道研究会の先輩方との出会いをきっかけに、思い描いていた理想の鉄道として『僕の心象鉄道「山吹軽便鉄道の話」』という文章を書かせてもらいました。この時の挿絵に主役として登場させた小型機関車は、約120年前に米国で製造された蒸気機関車を元にデザインしました」(角田氏)
その後、協会が保存する台湾から里帰りさせた蒸気機関車の修繕を繰り返すことで技術を磨き、古くなった部品を交換するためにボイラー製造会社や鋳物工場、木工工場などの門を叩いて職人たちと積極的に交流した。歯科医としても懸命に働き、「家1軒分」といわれる機関車製作の費用を蓄えた。しかし、夢の実現には半世紀という長い時間が必要だった。