約2年後に迫ってきた、東京2020オリンピック・パラリンピック。大会の国内スポンサー最高位の「ゴールドパートナー」の中で、唯一のスポーツ用品メーカーがアシックス(ASICS)だ。
日本選手団のウエアや、8万人とも言われる競技ボランティアのユニフォームを提供するのが同社で、すでに売り上げに占める海外比率が75%を占めるアシックスながら、“日本のアシックス”をアピールするのにこれ以上の舞台はない。
去る5月29日、そのアシックスがイベント&発表会を行った。アシックスを創業した鬼塚喜八郎氏の生誕100周年記念(1918年5月29日生まれで2007年に他界)で、1つは生誕100年を機にした新たなシューズとアパレルの発表、もう1つが、次世代の陸上スプリントシューズのプロトタイプの発表だった。挨拶で登壇した、アシックス会長兼CEOの尾山基氏は在りし日の鬼塚氏についてこう語っている。
「戦後、(アシックスが本社を置く)神戸の街に鬼塚がやってきて、若者に夢を与える事業をしたいということでまず、地元の長田区にある靴屋街に行き、半年間、靴作りをイロハから勉強したのがスタートでした。その後、当時はまだ輸入品しかなかった、バスケットボールシューズを作ったのが当社の第1号製品です」
続いて鬼塚氏が掲げた6項目からなる「スポーツマンシップ」を読み上げている途中、感極まって尾山氏が声を詰まらせる場面もあった。同氏は2008年から今春まで10年間、アシックス社長を務めたのだが、夫人が鬼塚氏の長女ということもあり、より身近に接していた故人への思いが強く想起されたのだろう。
ちなみに、尾山氏は大学卒業後に日商岩井(現・双日)に入社し、ナイキ・ジャパンの立ち上げなどに携わった後、1982年にアシックス入りしている。また、ナイキの勃興はアシックスと深い関係がある。
昨年10月、『SHOE DOG』(東洋経済新報社)という本が発刊されたが、この本、自伝ものとしては異例の20万部を超えるベストセラーになって広く話題になった。著者はナイキ創業者のフィル・ナイト氏である。
ナイト氏は神戸に来た際に「オニツカ」のシューズに魅了され、その後、契約して母国の米国でオニツカの販売代理店を営んだのだが、後に商標などを巡って鬼塚氏と対峙して訴訟を起こし、提携も解消。そのナイト氏に手を差し伸べたのが日商岩井だった。
ちなみにナイキ・ジャパンは1981年に折半出資で設立したものの、
「その後、ナイキ側が『日本のマーケットはよくわからない』と言って資本を引き上げ、一時期はナイキ・ジャパンは日商岩井の100%子会社になったんです。でも、その後日本でも大成功して株を買い戻しにきて、今度は逆に日商岩井のほうが経営的に大変な時期だったので、持ち株をすべて売ってしまった」(双日の元首脳)
という紆余曲折もあった。シューズビジネスには、何かと商社が絡むことが多い。たとえばニューバランスジャパンの社長は兼松出身だし、コンバースジャパンの商標権は日本では伊藤忠商事(米国ではナイキ)が持っており、伊藤忠はデサントの筆頭株主でもある。