1951年、日本の戸籍に子の名前として記載できる漢字が定められた。当初は100文字に満たない漢字しかなかったが、徐々に増加、現在は800文字超ある。選べる範囲が増えたこともあってか、難読名の子供も増えていると言われる。なかでも、漢字の無理読みで付けた子供の名前「暴走万葉仮名」にあらわれる特徴について、評論家の呉智英氏が分析する。
* * *
前の私の担当回で書いたことの続きが今回の話である。前回私は、教育の差が現代的階級社会を生んでいる、と書いた。教育の差は小中学校段階で超えがたいほどのものになり、しかもそれは教育費の差でもあり、世代的に継承される。
これは私の特異な見解ではない。気づいている人は他にもいるのに一種のタブーとなって発言しにくい。これも忖度社会の一現象なのだが、政治家への忖度よりタチが悪い。政治家への忖度は利権によるものだ。一方、こちらの忖度は「良識」によるものだからである。
吉川徹(きっかわとおる)の近著『日本の分断』(光文社新書)を読んだ時もそう思った。
吉川は統計によって社会分析をする計量社会学者だ。これまでの著作のほとんどが学歴に関するものだし、この本もそうである。しかし「良識」を忖度したのか、何か微妙な表現だ。書名もそうだが、サブタイトルにも「非大卒若者たち」とあって「レッグス」とふり仮名がしてある。市民運動団体の名前かと思った。
教育とその結果としての学歴は、本来、江戸期までの身分制社会を打破するためのものであった。福沢諭吉が『学問のすゝめ』で説いたのもそこである。ところが、吉川の指摘するように「不平等を解消する手段であったはずの学校教育」が「地位の中核」を占めるようになった。福沢の理念を実現するはずの慶應大学がその一端を担う逆説である。