NHK大河ドラマ『西郷どん』では、主人公の西郷隆盛がいよいよ「革命家」として目覚め、京都を舞台に活躍していく姿が描かれようとしている。その後の歴史は徳川幕府の終焉と明治新政府の誕生へと進んでいくが、実はその過程には西郷隆盛の属する「薩摩藩」の謀略があった。歴史作家で『ざんねんな日本史』著者の島崎晋氏が解説する。
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慶応三年(一八六七)一〇月一四日の大政奉還に続き、同月二四日には徳川慶喜が征夷大将軍の辞表を提出。慶喜としては、徳川家が最大の大名であることに変わりはなく、今後の政治も徳川家主導のもと進められるものと考えていた。
しかし、薩摩藩と長州藩は完全なる倒幕の意志を曲げず、同年一二月九日午後四時頃に王政復古の大号令を発したのに続いて、午後六時頃に開始された小御所会議では、徳川慶喜に対して辞官納地、すなわちすべての官位と領地の返還を要求することが決せられた。
これを受けて慶喜は不測の事態が起きるのを避けるために京の二条城から大坂城へと居を移したうえ、土佐の山内容堂や越前の松平春嶽など穏健派の力を借りて、辞官納地要求の骨抜きと、新政府への慶喜の参加を承認させることに成功した。
徳川慶喜もしぶといが、薩摩藩の執念はそれを上まわり、徳川側に傾きかけた流れを変えるべく、挑発行為を繰り返すことで、徳川のほうから戦いを仕掛けさせることにした。決戦の場は京周辺になるだろうが、挑発の場はそこである必要はなく、徳川家の心臓部でありながら、報告を待つしかなく、苛立ちを募らせていた江戸こそが相応しいと考えた。
そうと決まれば、薩摩藩は手段を選ばず、討幕派の浪士たちをたきつけ、無差別の強盗や放火を繰り返させた。旧幕府との親密度に関係なく、どこの商家もほぼ例外なく「勤王倒幕」を掲げる押し込み強盗に襲われ、場所を選ばない放火により長屋の住民たちまで焼け出された。若い娘が白昼堂々乱暴される事件も相次ぐなど、江戸中がテロの恐怖に覆われる生き地獄と化していった。放火によるのかは不明ながら、江戸城内でも二の丸が全焼する被害を被っており、これで下手人を一人も逮捕できないとあっては、徳川の面目丸つぶれであった。
旧幕府側も無為無策でいたわけではなく、追い詰められた不逞浪士たちが三田の薩摩藩邸に逃げ込むのを何度も確認していた。けれども、江戸時代の藩邸は現在で言う大使館や領事館にあたり、幕府の警察権が及ばない聖域であった。そこで旧幕府側は手順を踏み、丁重に不逞浪士たちの引き渡しを求めたが、薩摩藩の留守居役は言を左右にするばかりであった。
江戸城の留守居役たちは我慢の限界にきていた。勘定奉行の小栗上野介までが強硬論に傾くに及び、一度は強行突入でまとまりかけるが、いまだ煮え切らない者も多数いたことから、結局は大坂に急使を送り、慶喜の指示を待つこととなった。
かくして旧幕閣たちはいったん矛を収めたが、薩摩藩には手を緩める気はなく、同年一二月二三日、庄内藩の屯所に対して発砲を行なった。明らかな挑発行為である。これで江戸城留守居役たちも腹を決めた。