「十死零生」──生き残る可能性はゼロ、といわれた特攻で、9回出撃し9回生きて帰ってきた特攻兵がいた。特攻隊員・佐々木友次(ともじ)はなぜ、生きて帰ることができたのか? その生涯に魅せられた作家・演出家の鴻上尚史氏が、生還の秘密に迫る。
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帝国陸軍の特攻兵・佐々木友次は数奇な運命の持ち主だった。
北海道出身で幼い頃から飛行機が大好きだった少年は乗員養成所を経て陸軍の下士官操縦士となり、弱冠21歳で陸軍最初の特攻隊『万朶(ばんだ)隊』の一員となった。
戦況が悪化した昭和19年(1944年)10月、海軍と陸軍は最初の特攻隊を編成した。海軍のそれは『神風特別攻撃隊』と名づけられ、ゼロ戦に250kg爆弾を装備した。フィリピンを拠点とした陸軍の万朶隊は、九九式双発軽爆撃機(九九双軽)に800kg爆弾をくくりつけた。
特攻はすなわち死を意味する。「特殊任務」の内容を知った佐々木は死を意識しつつ、日露戦争を生きのびた父の「人間は容易なことで死ぬもんじゃないぞ」との教えを思い浮かべた。
そんな佐々木に大きな影響を与えたのが万朶隊隊長の岩本益臣(ますみ)だった。
陸軍は何が何でも体当たり攻撃を成功させるべく、優秀なベテランを万朶隊に召集した。さらに九九双軽の機体に爆弾を縛りつけて「体当たり専用機」にした。