「日本機侵入」米国の警戒網をかいくぐった機体は史上初の米本土への爆撃を成功させる。40年以上の時が流れ、米国大統領はそのエースパイロットの勇気に最大級の讃辞を送った。作家の倉田耕一氏が、その日本人パイロットがなぜそのような待遇を受けたのかを記す。
* * *
昭和十七年四月、海軍の軍令部は東京など主要都市が米軍機に空襲されたことを重く受け止め、その報復として米国本土爆撃を計画した。しかし、その計画は奇妙奇天烈(きてれつ)なものであった。
同年八月上旬、横須賀軍港の岸壁に係留されていた伊号二五潜水艦の飛行長、藤田信雄(飛行兵曹長)は「入湯上陸」の予定で、いわゆる泊まりがけの外出が許可されていた。
「飛行長、ちょっと来てくれ」
艦長の田上明次が狭い艦長室から、士官室に顔をのぞかせ、藤田を呼び出した。彼が艦長室に行くと、田上が電報を差し出す。それには「伊号二五潜水艦飛行長、本日軍令部第三課ニ出頭セヨ」とあった。