一日あたりの乗降客数が世界一の新宿駅は、誰もが認める巨大ターミナル駅だろう。一方、江戸時代から東海道五十三次宿場としての歴史をもちながら、駅としては地味だった品川駅は、リニア中央新幹線の起点になることが決まり、その発展から目が離せない存在となった。『ライバル駅格差』(イースト新書Q)著者の小川裕夫氏が、著書でも取り上げた新宿駅と品川駅について、そのライバル関係について考えた。
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いまや高層ビルが連なる副都心となった新宿駅。その歴史は、1885年に日本鉄道が駅を開設したことに始まる。
開業当時の新宿駅は、東京のはずれに位置した。新宿という駅名は、駅よりも内側にあった宿場町・内藤新宿に由来する。その頃の新宿駅は、まだ場末だった。
新宿駅は世界一とも言われるほど、一日の利用者数が多い。それゆえ、駅も大きく発展している。駅東口には、大資本による大型店舗が並ぶ。
そうした大型の小売店や高層ビルの隙間に、小さな店舗がひっそりと残っている。小さな店が密集する新宿ゴールデン街の権利関係は複雑だ。それらは、戦後の焼け跡時代に組が思い思いに商売を始めたことに起因している。
同様に、不夜城の異名をとる歌舞伎町も戦後に誕生した。新宿の地主だった鈴木喜兵衛は、新宿駅東口一帯を健全なエンターテイメントシティにするべく奔走。鈴木は、東京都職員として都市計画を主導していた石川栄耀に相談した。
石川の助力もあって、周辺エリアは健全な娯楽街として計画をスタート。同地には歌舞伎座の誘致が検討された。そうした願いを込めて、町名は「歌舞伎町」と改められた。歌舞伎座の誘致は未完に終わったが、同地は日本屈指の歓楽街として順調に発展した。
一方、西口には明治期に造成された淀橋浄水場があった。新宿西口の開発計画が本格化するのは、1950年代に入ってからだ。1956年に首都圏整備法が成立し、1960年に新宿副都心計画が決定。副都心開発のトップランナーは、京王プラザビルだった。
京プラの開業から副都心開発は段階的に進み、1991年には都庁舎が有楽町から西新宿へと移転。2万人を超える都庁職員の職場が有楽町から西新宿へと替わった。都庁舎の西新宿移転は、平成のミニ遷都とまで形容されるほどの規模だった。