《絆 朝は必ず来る》。力強い筆致でそう書かれたヘルメットを被り、真っ赤なツナギを着た尾畠春夫さんの姿が、8月19日、西日本豪雨で被災した広島県呉市にあった。被災家屋の家財道具を整理し、土砂を土のうに入れて運び出す。10人グループの中で、若いボランティアには指導も行っていた。
身長161cm、体重57kg、御年78才。小柄なおじいちゃんである。真っ黒に日焼けした顔に刻まれた深い皺を、汗がつたう。ここでは1か月前にもボランティアをしたが、以前と違うのは、彼の姿を一目見ようと住民が集まっていたことだろう。尾畠さん、ありがとう、がんばって、という声も飛ぶ。
山口県周防大島町で行方不明となった2才の男児、藤本理稀(よしき)ちゃんを発見した「カリスマボランティア」として、尾畠さんは一躍、時の人だ。
広島に出発する前日の17日、本誌は大分県日出町(ひじまち)にある尾畠さんの自宅を訪れた。
「私は来るもの拒まず、去る者追わず、だから」
家の前にはテレビ局のロケバスや新聞記者のタクシーが並ぶ。尾畠さんが座る茶の間は取材陣ですし詰め状態だ。しかし、尾畠さんは嫌な顔ひとつせずに、よく通る大きな声で質問に丁寧に答える。
──ハチマキに使う赤いタオルは何本持っていますか。
「1500本ぐらいしかないよ! ワッハッハ」
時折の軽快なジョークには記者たちもドッと沸く。
なぜボランティアに人生を捧げるようになったのか──尾畠さんは幼少からの人生を振り返った。
◆小学生のときに母が死に農家に丁稚奉公に出された
「親父は下駄を作って売る職人でした。明治生まれだから厳しい人でね。よく殴られました。食うのも厳しい時代だった。小学生のときに母親が亡くなりましてね。それから農家に丁稚奉公に出されました。育ち盛りにいつも腹を空かせて、つらい思いをしましたよ」(尾畠さん、注がなければ「」内以下同)
昭和14年生まれ、大分県安岐町(現・国東市)の出身。戦争が激化する時代に生まれ、戦後の貧しい時代に育った。杵築市の八坂中学校に在籍していたが、ほとんど学校には通えなかったという。