2018年秋、30年以上の懸案だった東京の台所が築地から豊洲へ移転する。築地と豊洲はどちらも、関東大震災をきっかけに街として変貌を遂げた歴史があった。『ライバル駅格差』(イースト新書Q)著者の小川裕夫氏が、築地駅と豊洲駅を中心に発展してきた二つの街のライバル関係に着目する。
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2016年には閉場することが決まっていた築地市場は、小池百合子都知事の鶴の一声で延期になった。豊洲新市場の開場も先延ばしにされた。
料亭が立ち並ぶ銀座や日本橋からも近い築地市場は、東京の台所として親しまれてきた。また、近年では”築地直送”なる言葉も定着。築地市場で取り引きされる水産物はブランド化していた。築地と言えば、築地市場のことを指す用語にもなっている。
築地市場は、ずっとこの地にあったわけではない。江戸時代には、船から荷揚げをする河岸が市中のあちこちにあり、そのうち水産物を荷揚げする魚河岸は約70あったといわれる。
1603年頃、築地市場の前身ともいえる日本橋魚河岸が誕生。物流が人力頼みで、冷蔵・冷凍技術もなかった時代において、鮮度が生命線である魚市場は必然的に都心部に立地しなければならなかった。
時代が明治に下ると、魚市場は邪魔者扱いされる。政府からは路上を占拠していたことが疎んじられる要因になっていたが、魚を捌くために周囲には汚臭が漂い、魚クズが散乱するので不衛生だった。これが忌み嫌われた。
東京府は魚河岸を日本橋箱崎に移転するよう命じた。この命令は、移転にかかる費用が自己負担だったために業者からの反発は激しかった。
魚河岸の移転騒動で混乱する中、富山県から端を発した米騒動が全国に波及。不当な米価の吊り上げが原因で、市民は暴徒化する。米騒動は、食料の安定供給が政治課題であることを露わにした。
そうした反省を踏まえ、行政が介在する中央卸売市場が構想される。1923年、中央卸売市場法が成立。中央卸売市場の重要性がきちんと認識されたわけだが、同年に関東大震災が発生。震災で日本橋魚河岸は壊滅的な被害を出し、新天地を求めて業者たちは築地に移転することになった。
築地市場というと、マグロをはじめとする水産物ばかりがイメージしがちだが、築地市場には野菜や果物を取引する青果部もある。こちらは、京橋にあった青物市場がルーツだ。京橋青物市場も関東大震災で被災。1935年に築地市場へと統合された。
こうして築地市場本橋魚河岸と京橋青物市場が集約されたことで、築地市場の骨格が組みあがっていく。しかし、肝心の水産物を取り引きする建物の整備は遅れた。
1930年に挙行された関東大震災からの復興を祝う帝都復興祭では、まだ築地市場の中枢機能を果たす水産物部仲卸業者売場の建物は完成していなかった。
全国各地で水揚げされた水産物は、貨物列車で築地まで運ぶことが想定されていた。そのため、貨物列車が市場に直接乗り入れられるように弧型をした建物が設計された。実際、昭和30年代までは貨物専用の汐留駅から東京市場線を通って築地市場へと鮮魚列車が乗り入れていた。
鮮魚列車は鮮度が命。国鉄はそうした事情を汲み取ってダイヤを組んでいたが、築地市場へ水産物を運ぶ鮮魚列車は悩みの種だった。鮮魚列車が現地を出発する早朝はダイヤに余裕はある。しかし、市場に到着する頃には通勤ラッシュの時間帯に差し掛かる。