わが国も、以前は冊封体制に組み込まれ、シナ帝国に対して従属的な地位にあった。邪馬台国の卑弥呼や〝倭の五王〟の時代だ。その頃の君主の称号は、朝鮮の三国と同じ「王」だった。
隋が大陸を統一した以上、日本も王朝分裂時代のように没交渉を続けるわけにはいかない。外交関係の再開は避けられない。その場合、ふたたび冊封体制下に舞い戻るのか。それとも別の道を選ぶのか。わが国はこの時、重大な岐路に立たされた。当時の君主は女性の推古天皇。聖徳太子と蘇我馬子が天皇のもとで国政を支えていた時代だ。
◆「王」に逆戻りはあり得なかった
推古天皇はこの局面で、冊封体制から明確に離脱し、独立自尊の立場で隋との外交関係を築く道を選択した。朝鮮の三国とは異なる進路を選んだことになる。これは勇気ある決断だった。
まず西暦六〇〇年の第一回遣隋使は、隋の皇帝の冊封を“受けない”という姿勢を貫いた。次に第二回遣隋使は小野妹子が六〇七年に派遣された。この時、妹子が持参した国書の冒頭部分はよく知られているだろう。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」(隋書倭国伝)と。