“殺しの柳川”と称された柳川組を解散後、日韓の橋渡しに後半生を捧げた柳川次郎(梁元錫、ヤンウォンソク)が、力を入れたのがスポーツ交流だった。のちに劇画『空手バカ一代』のモデルとなりスーパースターになった、空手の極真会館館長・大山倍達とは兄弟同様のつきあいだった。ジャーナリストの竹中明洋氏が、柳川の足跡を辿った。
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1969年か1970年のことだという。千駄ヶ谷の東京都体育館で空手の極真会館が開いた全日本選手権大会にその男が姿を現すと、役員席にいた館長の大山倍達はすぐさま駆け寄った。あまりの慌てぶりに、弟子の添野義二(現・士道館館長)は思わず「あの人は誰ですか?」と師に尋ねたほどだ。大山はすぐに言った。
「きみ、あれが殺しの柳川だよ」
梶原一騎原作の漫画『空手バカ一代』で知られる極真会館は、伝統流派がいわゆる寸止めルールを取っていたのに対し、フルコンタクト(直接打撃)を提唱した。最盛期には全世界に1200万人もの会員を有した。その極真会館の相談役が柳川次郎である。柳川は大山との出会いについてこう語っている。
〈終戦後のいわゆるドサクサと称される時期に私と大山館長との出会いがあった。(中略)館長との初対面のことを思い出してみたのだが、どうも角突き合わせてあわやケンカ一歩手前というところまでいったのではないだろうか。しかし、何がきっかけかは忘れてしまったが、その後すっかり意気投合してしまい、以来ずっと兄弟同様のおつきあいをさせてもらっている〉(『月刊パワー空手』1982年9月号)