“殺しの柳川”と称された柳川次郎(梁元錫、ヤンウォンソク)が1969年に柳川組を解散したあと、力を入れたのが日韓のスポーツ交流だった。空手の極真会館館長・大山倍達を庇護し、アントニオ猪木を韓国へ送り込み、猪木のモハメド・アリ戦でも陰ながらその成功を支えていた。ジャーナリストの竹中明洋氏が、柳川の足跡を辿った。
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1974年11月、柳川は韓国政府の招きを受けて韓国を訪問した。7歳で釜山から海峡を渡って以来、じつに45年ぶりに祖国の土を踏んだことになる。この訪問で柳川は大統領の朴正熙(パクチョンヒ)から直々にある依頼を受けた。
内実について語るのは、元新日本プロレス営業本部長の新間寿(しんまひさし)だ。
「韓国から帰ってきた柳川さんから連絡があって大阪の事務所を訪ねると、『韓国でプロレスをやってくれないか』と。聞けば、大統領から国軍将兵の慰問のためにやってほしいと依頼を受けたそうです。『そういうことなら、猪木と大木の対決ということでどうですか』と提案すると、柳川さんは『おい、すぐに大木に連絡を取れ』と大乗り気になりましてね」
朴正熙は無類のプロレス好きとして知られる。大統領在任中、プロレス中継が途中で打ち切られると、自らテレビ局にクレームの電話をかけたという逸話が残る。
力道山の弟子だった大木金太郎こと金一(キムイル)が、1963年の力道山死後に日本から韓国に帰国すると庇護し、大韓プロレス協会の設立を支援した。