暴走する軍部と対峙した昭和天皇。孤独な戦いのなか、お言葉は唯一の武器だった。現代史家の秦郁彦氏が解説する。
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明治憲法下の昭和天皇ができるかぎり「立憲君主」の立場を守りたいと望んでいたことは間違いない。皇太子時代に立憲君主制の英国を訪れて王室の「君臨すれども統治せず」というあり方に接したことや、元老の西園寺公望や側近の牧野伸顕らリベラルな人物に囲まれていたことなどの影響が、その背景にはある。
また、そもそも明治憲法も立憲君主制を念頭に置いて制定された。政治責任を負うのは臣下であって、天皇の裁可は一種の儀礼的な手続きにすぎない。
だが、立憲君主制の枠組みに収まらない例外的な事例もあった。昭和天皇ご自身も、昭和46年に外国人記者団にこう語っている。
「自分は立憲君主たることを念願としてきたが、2回だけ非常に切迫した緊急事情のため直接行動をとった。そのひとつが二・二六事件であり、もうひとつが終戦のときである」
ただし実はその二例よりも前に、微妙なケースがあったことも忘れてはいけない。昭和3年に起きた張作霖爆殺事件の責任を取って、翌年に田中義一内閣が総辞職した一件だ。一度は関東軍の河本大作大佐の仕業だと伝えた田中首相が、その後「陸軍には犯人はないだろうと判明しました」などと食言したことに激怒した昭和天皇が、「辞表を出してはどうか」と田中に迫ったのである。