10月8日に東京都内の自宅で亡くなった第54代横綱・輪島の輪島大士氏は生前、本誌・週刊ポストの記者の取材に、こんな言葉を残していた。
「現役の時は私もずいぶん、『不良横綱』といわれましたよ。“稽古もしないで銀座を飲み歩いている”と、マスコミにバッシングされた。しかし、私は稽古を積み重ねてきた自分を信じて土俵に上がり続けた。稽古しないで横綱になれるような甘い世界ではないからね」
本誌記者の手元には、2010年3月に当時の横綱・朝青龍が一般人への暴行事件で引退勧告を受けたあと、輪島氏に見解を聞いた時のテープが残っている。
輪島氏は「黄金の左」と呼ばれた左差しからの強烈な攻めを武器に、学生相撲出身力士で唯一、横綱に昇進。横綱・北の湖とともに「輪湖時代」を築いた。引退後は年寄株を担保に借金を背負い、角界を追放されてプロレスラーに転身。
2013年に咽頭がんで声を失ってからは「筆談だと、気持ちがうまく伝わらない」と取材を断わるようになったが、それまでは行きつけの居酒屋や寿司屋のカウンターで取材に応じることが多かった。その輪島氏が最も印象深い場所として挙げたのは、1974年7月場所。この場所で北の富士と琴櫻の2横綱が引退表明し、輪島はひとり横綱となった。
「千秋楽の時点でひとり横綱の私が13勝1敗。大関だった北の湖が14勝0敗だった。下馬評は圧倒的に私が不利で、千秋楽の取組前、支度部屋には記者が2人しか来ていなかった。隣の支度部屋をのぞくと、北の湖の周りを報道陣が取り囲んでいるんです。しかも、トイレに行ったら、窓から優勝パレードの準備の様子が見えて、すべての車に『北の湖』の名前が貼ってある。驚いて思わずションベンが止まってしまったよ。誰も私が勝つと思っていなかったわけだ。それでかえって、闘志が沸いた」
結局、千秋楽の結びの一番と優勝決定戦で北の湖に連勝。見事に賜杯を抱いた。
「準優勝の北の湖は場所後に横綱に昇進したが、千秋楽に負けていたら、私はそのまま引退していたかもしれない」と感慨深そうに振り返った。