皇太子時代に“君臨すれども統治せず”という在り方に接した昭和天皇は、明治憲法下で立憲君主であろうとした。だが、二・二六事件で反乱軍の鎮圧を命じたり、終戦の聖断を下さしたりと例外的な事例もあった。新憲法下でも、マッカーサーとのトップ会談に計11回も臨んだ。では、日本が独立を回復してからはどうか。現代史家の秦郁彦氏が解説する。
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サンフランシスコ講和条約の発効によって占領期が終わり、日本が独立を回復すると、昭和天皇は本来の「象徴」の座に復帰した。その後、国家の政策に影響を与える発言はしていない。
しかし過去の発言はさまざまな形で世に出て、物議を招くこともないではなかった。たとえば戦前・戦中の出来事に関して昭和21年に側近へ語った談話をまとめた『昭和天皇独白録』で人々を驚かせたのは、昭和天皇の人物評の厳しさだ。天皇は臣下の悪口など言わないと思われていたが、たとえば近衛内閣の外相だった松岡洋右については、「おそらくはヒトラーに買収でもされたのではないかと思われる」などと語っていた。
2006年に報道されたいわゆる「富田メモ」も記憶に新しい。元宮内庁長官・富田朝彦のメモの中に、昭和天皇がA級戦犯の靖国神社への合祀に不快感を示す発言があったのだ。
1978年にA級戦犯を合祀した靖国神社の宮司・松平永芳は、終戦直後に最後の宮内大臣として昭和天皇に仕えた松平慶民の子である。その永芳がA級戦犯の合祀を打診した際、宮内庁の侍従次長は「そんなことをしたら陛下は靖国に参拝されなくなりますよ」と警告した。だが東京裁判に強い不満を持つ永芳は「天皇にお参りしてもらう必要はない」と合祀を強行する。「富田メモ」では、これに対して昭和天皇が次のように語っていた。