【書評】『こころ傷んでたえがたき日に』/上原隆・著/幻冬舎/1600円+税
【評者】関川夏央(作家)
初秋の井の頭公園の午後遅く、ベンチに五十代の女性が一人で座っている。「懐かしくて三十年ぶりに来た」のだという。遠い昔、公園の木蔭でテナーサックスを練習する五歳上の青年と知りあった。一年弱つきあって、別れた。彼女は大学の同級生と結婚した。しかし連れ合いは去年がんで亡くなった。娘が二人。
「大丈夫、寂しくないの。友だちもいるし」
桜の葉が散る。池で鯉がはねる。今日はこれからジャズ・コンサートに行く、と彼女はいった。誰のコンサート? 尋ねるとチケットを見せてくれた。
「本多俊之と吹奏楽団コンサート」
え? と聞き手は思う。昔つきあった彼って……?
「彼女はにこっと笑って、首を横に振った」
──人は誰でも「物語」を持っている。