150年続いた鎌倉幕府を打倒し、「建武の新政」を行った後醍醐天皇の理想は数年で頓挫し、南北朝が対立する動乱の時代を招いた。しかし、兵藤裕己・学習院大学教授は、その「新政」の思想は、近代日本の社会や国家のあり方をも規定した、と指摘する。兵藤氏が解説する。
* * *
鎌倉末期から南北朝の動乱の時代を描いた軍記物語の『太平記』など、歴史書のなかの後醍醐天皇の評価は大きく二分されている。稀代の帝王であり「賢才」【*注1】との評価がある一方で、先例を無視した政治手法は、南朝方の公家からも批判される。
【*注1】南朝を創始した後醍醐天皇とは対立した、北朝方の公家中院通冬の日記より。
北朝方の公家の三条公忠は、自身の日記で、後醍醐の治世を「物狂の沙汰」と評している。「物狂」は、常軌を逸して正気でない意味。この「物狂」という評価は、従来やや恣意的に(発言された文脈を考慮せずに)引用・解釈されてきた。
それは現代において後醍醐の王権が「異形の王権」といわれ、その評価が芳しくない一因ともなっている。「物狂の沙汰」という評価が、後醍醐の「新儀」によって既得権益を奪われた人物の発言であることが見落とされているのだ。承久の乱(1221年)で京都の朝廷が鎌倉幕府と戦って敗北した後、朝廷の権威は大きく失墜した。幕府を打倒することは、朝廷の長年の悲願となった。