4球団競合の末に、中日が大阪桐蔭・根尾昂の交渉権を獲得し、金足農・吉田輝星を日本ハムが外れ1位で指名──ドラフトの歴史に新たなページが刻まれた。その光景は、50年以上にわたる数々のドラマ・内幕を知る“伝説のスカウト”の目には、どう映ったのか。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がリポートする(文中敬称略)。
* * *
◆「故障を知らずに1位指名」
1965年11月17日、プロ野球ドラフト会議は初めて開催された。男は、53年前の記憶の断片をつなぎあわせるように口を開き始めた。
「非常にファジーな形でドラフト会議はスタートし、各球団が見切り発車で選手を指名していた。ですから、契約したもののまったく使い物にならなかった選手もいた。江川(卓)の事件や他の不正もあって、ドラフト制度は大きく変わり、今はクリーンに整備されている。そういった機運を作ったのは、やはり1985年のKK(桑田真澄、清原和博)のドラフトだと思います」
82歳になる男の名は井元俊秀。長く高校野球に携わる者に、彼が残した足跡はよく知られている。現在は秋田・明桜高校に籍を置く井元であるが、2002年までPL学園で全国の選手をスカウト(選手勧誘)する仕事に従事し、KKコンビや立浪和義らを同校に導き、常勝軍団を陰から作り上げた。
井元はPL学園1期生であり、同校を卒業後、学習院大学に入学。同大が初めてにして唯一、東都大学リーグを制した“神宮の奇跡”の時のエースだった。
卒業後、PL学園野球部の監督に就任すると、1962年の選抜で甲子園に初出場を果たす。その後、選手の進学先の世話に悩み、野球人脈を築こうとスポーツニッポンの記者に転身。新米記者として派遣された現場が、第1回ドラフト会議だった。