11月27日、50周年を迎える芸能事務所・サンミュージックの第一号タレントとなった森田健作は、創業時から事務所を支え、故・相澤秀禎会長とともに同社を立ち上げた福田時雄名誉顧問が見出し、外交官志望だった彼を熱心に説得したデビューにこぎ着けた。その後、数多くの歌手やタレントを送り出し、なかでも桜田淳子、香坂みゆき、松田聖子など人気アイドルを次々と“量産”し続けている。福田氏が、人気アイドルたちのデビュー当時を振り返る──。
1980年4月に松田聖子がデビュー、2曲目の『青い珊瑚礁』が大ヒットし「ポスト山口百恵」の座を射止めたが、事務所は手を緩めず、1982年の早見優、1984年の岡田有希子、1987年には酒井法子と人気者を育て、女性アイドル王国を築いた。
「売れる子は、名台詞を残していますね。早見優のデビューの年は本当に新人豊作の年で、暮れの賞レースも熾烈でした。優も様々な新人賞をいただいていましたが、横浜音楽祭では落選してしまった。当然スタッフも含めて取れるものと思っていました。終了後、優を励まそうとレコード会社のスタッフと一緒に食事に行った時に、優が『挨拶したい』と言ったんです。
『今日私は新人賞を取れると思っていたので、悔しくてトイレで泣きました。でも鏡に映った顔を見て、自分が思い上がっていることに気づきました。心を入れかえて、頑張ります』と。これは燃えましたね。日本レコード大賞新人賞に必ず入れると。
有希子はレコード会社の挨拶回りをした時、『恋人のいらっしゃる方は半分、奥様のいらっしゃる方は3分の1で結構です。私に愛情をください』と言ったんですよ。すると、一人の男性社員が『僕は女房も恋人もいないから100%注ぎます!』と叫んで大いに盛り上がりました」