【書評】『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』/かげはら史帆・著/柏書房/1700円+税
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
ベートーヴェンは、楽聖とよばれている。音楽史上の実績のみならず、高潔な人格によってもうやまわれてきた。日本でも、とりわけ少年少女むきの偉人伝などでは、そこが強調されている。
しかし、じっさいのベートーヴェンは、そう気高い人でもなかったらしい。横柄で人を人とも思わず、周囲をしばしばうんざりさせてきた。けっこう下品な、それこそセクハラ親爺めいたところも、なかったわけではない。身なりは不潔で、食い意地もはっていた。
その人となりを美化して後世につたえたのは、アントン・シンドラーである。第五交響曲の冒頭は、運命が扉をたたく音にほかならない。運命交響曲のそんな逸話をつくったのも、シンドラーであった。第八交響曲第二楽章のテンポに関する作曲家の指定も、かってにでっちあげている。後世の音楽界には、けっこうめいわくをかけた人であったと言うしかない。
いちおう、ベートーヴェンをかこむ取り巻きのひとりではあった。しかし、かんじんの作曲家からは、けっこううとんじられている。便利づかいをされることもあったが、基本的にはけむたがられていた。