おふたりのご成婚により、国中が祝賀ムードに包まれた。ところが、初の民間出身の皇太子妃となられた美智子さまは、一部の皇族や女官などから心ない言動を受けることになる。
「1960年に長男・浩宮(現・皇太子さま)が生まれてからも、慣習にとらわれず自分の手で子育てされようとした美智子皇后は、宮中の女性から激しくバッシングされました。家柄もよく容姿端麗でスポーツもできた皇后は、皇室という巨大な存在のなかで、初めて“弱い自分”を感じながら、“人は一人ひとり自分の人生を生きている”として、決して希望を捨てませんでした。“最も高い地位〟にありながら、最も庶民に近い感性を持つ皇后の心情が滲み出る言葉です」
〈とりわけみずからが深い悲しみや苦しみを経験し、むしろそれゆえに、弱く、悲しむ人びとのかたわらに終生寄りそった何人かの人々を知る機会をもったことは、私がその後の人生を生きる上の指針のひとつになったと思います〉(2004 年10月/70才の誕生日会見)
成婚後の美智子さまが特別に「深い悲しみ」に見舞われたのは1963年。浩宮さまに次ぐお子さまを流産された。「当時の美智子皇后は明仁天皇とともに、出産についても皇室の慣例を破り、一般家庭に近い形を貫いていた時期でした。それだけに流産によって精神的危機に陥り、葉山御用邸(神奈川)でひとり長期静養することになりました」
その頃の美智子さまを支えた1人が、ハンセン病患者のための施設「長島愛生園」(岡山県瀬戸内市)の精神科医長だった故・神谷美恵子さんである。「神谷さんは、社会的な偏見に苦しんでいたハンセン病患者のケアを行い、弱い立場の人々とともに歩むかたでした。深い闇の中にいた美智子皇后は、神谷さんとの出会いによって傷ついた心を癒され、“国民の苦しみに寄り添う姿勢”を確立されていきました」
その後、美智子さまは46年かけて国内のすべてのハンセン病療養所を訪問された。
〈福島の子供たちの健康はどうでございますか〉(2018年11月/最後の園遊会)
2011年3月11日、東日本大震災。その5日後に陛下は国民に向けたビデオメッセージを発表され、3月30日から7週連続で被災地の避難所を回られた。両陛下は原発事故についても深く憂慮された。
「明仁天皇は、原発事故直後から福島第一原発の視察を強く希望され、5月に美智子皇后とともに福島県を訪問されました。さらに政治家やマスコミが原発事故への関心を失うなか、2012年から4年連続で、新年の『ご感想』のなかで、放射能汚染に見舞われた地域住民に心を寄せるメッセージを発せられました」
美智子さまも陛下と同じ思いだった。
「両陛下は原発事故後に6度、福島県を訪問しています。昨年6月の在位中最後の訪問では、車での移動中に福島第一原発が見える地点を通られた。しかも11月の両陛下主催の最後の園遊会では、原発事故調査に携わった山下俊一・福島県立医科大学副学長に、美智子皇后が福島の子供たちの健康について尋ねました。政財官など“国家の中枢”のなかで、変わらず福島に寄り添う発言を続けているのは、明仁天皇と美智子皇后だけです」
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昨年10月20日、在位中最後の誕生日にあたり、美智子さまは次のように心境を述べられた。
〈皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく――そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います〉(84才の誕生日文書)
「戦後60年間、象徴天皇としての困難な旅を続けられた明仁天皇の傍らには、常に美智子皇后の励ましの笑顔がありました。両陛下は、戦後日本のベストカップルなのです」
※女性セブン2019年2月21日号