「美智子皇后の言葉ほど、奥深く、心にしみ、しかも実用的なメッセージは、聞いたことがない」。ノンフィクション作家の矢部宏治さんが、両陛下が国民とともに歩まれた60年を振り返り、折々に美智子さまが発せられ、時代をつくられてきた言葉を読み解く。
天皇皇后両陛下が発せられる言葉がどのようにつくられているかは意外に知られていない。側近や宮内庁が代筆するという誤解も多いが、実は、ご自身の考えや意思が国民に伝わるよう、自ら丁寧に言葉を紡ぎ、推敲に推敲を重ねて仕上げられている。両陛下の言葉をまとめた『天皇メッセージ』(小学館)の著者である矢部宏治さんが、昨年12月23日の陛下の誕生日会見を読み解く。
「このおそらく在位中最後となる会見は、明仁天皇の万感の思いが隅々まで込められたもので、なかでもはっきりと5度、言葉を詰まらせられたことが印象的でした。そのうち2か所は美智子皇后について触れた一節でした。いかにおふたりが、ご苦労をともに分かち合い、乗り越えてこられたのかがわかりました。明仁天皇のお言葉はもとより、ご結婚以来60年、ともに大きな光と闇の時を体験されてきた皇后の言葉にも、今、耳を傾けるべきでしょう」
以下では、矢部さんの協力のもと、美智子さまのこれまでの言葉のなかで、特に印象的な5つを並べた。それらは、時代を見事に切り取るとともに、深い懊悩を越えて、私たちに勇気を与えてくれる言葉だった。
〈私のめざす皇室観というものはありません。ただ、陛下のお側にあって、すべてを善かれと祈り続けるものでありたいと願っています〉(1994年10月/60才の誕生日文書)
その言葉の背景に、矢部さんはまず「天皇の孤独」を読み取る。「敗戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は、明仁皇太子(当時)の15才の誕生日に、まるで見せつけるかのようにA級戦犯を処刑しました。その恐怖にも負けず、日本の復興を自らの務めと思い定めた皇太子は、学習院高等科の英語の授業で『I shall be Emperor』(私は必ず天皇になります)と宣言。以降、『新しい時代の天皇制はどうあるべきか』をひとりで模索されました。
天皇という『職業』についても、根本的に改革する意志を持たれていたようです。たとえば25才で結婚する直前には『ぼくは皇居内に住みたくない。皇居はなるべく開放して、大衆向きの公園に使ってほしい』『天皇になってもぼくは街の中に住む』と親しい友人に語られていたと報道されています。苦難の道を歩まれた明仁皇太子が心に抱いた孤独と恐怖を、痛切に感じ取られたのが美智子皇后でした」(矢部さん・以下同)
1959年4月10日、明仁皇太子と結婚された美智子さまには、「一種の使命感」があったという。「“孤独な皇太子さまに、温かいホームをつくって差し上げたい”というお気持ちだったと述べられています。自らが国や皇室をどこかに導こうというのではなく、極限の苦悩の中で重い荷物を背負う明仁皇太子に肩を寄せて、ともに歩いていこうという強い使命感が、その後の60年間の根底にあったのだと思います」
その決意が「陛下のお側」という言葉に込められている。
〈だれもが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている〉(1980 年10月/46才の誕生日会見)