第2回米朝首脳会談は決裂したが、会談が開かれる前から朝鮮戦争の“終戦宣言”が行われる可能性が繰り返し報道されていた。しかし、最初から終戦宣言は困難だったのだ。「そもそも、法的拘束力のない政治宣言としての終戦宣言を行うことは難しいことではないが、休戦協定を平和条約や不可侵条約へと前進させることは簡単なことではない」と指摘するのは、朝鮮半島問題研究家の宮田敦司氏だ。
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朝鮮戦争は1953年7月27日に休戦協定が締結されたのだが、現在まで朝鮮半島の緊張状態は「休戦」とは程遠い状態にある。その実情が「休戦」の意味が分からなくなるほどだったからだ。
朝鮮半島では南北を分断する幅約4km(軍事境界線を中心に南北2km)、全長約248kmの非武装地帯(DMZ)を挟み、南北合わせて約184万人もの兵力が対峙しているだけでなく、2010年版「韓国国防白書」によると、小規模な戦闘が1020回以上にわたり繰り返されてきた。さらに、北朝鮮軍は43万回以上の休戦協定違反を行っている。その結果、死亡した兵員の数は米軍80人、韓国軍405人、北朝鮮軍844人以上にのぼっている。
◆朝鮮戦争開戦
朝鮮戦争は1950年6月25日(日曜日)午前4時、北朝鮮軍の奇襲によって開戦した。南侵は西海岸の甕津(オンジン)半島から東へと拡大し、38度線全域へと広がっていった。この時、韓国軍は北朝鮮との武力衝突が急減したため、非常警戒令を解除し、多くの兵士が休暇、外出、外泊しているほど警戒が緩んでいた。北朝鮮軍はこうした韓国軍の隙を突いたのだ。
この当時の国際状況を概観してみると、38度線は背後にソ連が控えていることから、朝鮮半島における南北の対立線というだけでなく共産主義対資本主義の対立線となっていた。一方、ヨーロッパではブルガリア軍がユーゴスラビア側の国境に集結していた。また、イランとトルコはソ連軍の脅威にさらされていた。さらに、東ドイツにはソ連進駐軍が駐留していた。
こうした状況から、北朝鮮の南侵の報告を受けたトルーマン大統領は、第3次世界大戦の幕開けだと思ったという。