『北の国から』(フジテレビ系)をはじめとする数々の名作を生み出してきたドラマ界の巨匠・倉本聰氏(84才)。4月から始まる“昼ドラ”『やすらぎの刻~道』(テレビ朝日系)の脚本を手がけることでも話題を集めている。倉本氏が約60年も脚本家として活躍を続けられるのはなぜか――。このほど、倉本氏と共著『ドラマへの遺言』(新潮社)を上梓した、元テレビプロデューサーで上智大学文学部教授(メディア文化論)の碓井広義さんが、倉本氏のスゴさを物語る数々のエピソードを明かしてくれた。碓井さんは36年間、倉本氏に師事してきた“愛弟子”だ。
◇一字一句へのこだわり
ドラマ制作では、撮影の前に出演者を集めて、初めから終わりまで脚本の読み合わせをする“本読み”が行われる。一般的に脚本家はあまり顔を出さないものだが、倉本氏は積極的に参加することで知られる。
「書いた言葉が役者さんに通じているか。表現のニュアンスの違いや要望を、倉本先生は直接役者さんに伝えます。これが世にいう“倉本聰の本読み”。その姿を見て、脚本がドラマの生命線なんだと改めて学びました。制作陣と役者に対する厳しい姿勢の根底にあるのは、いいドラマを作りたいという思いです」(碓井さん・以下同)
『優しい時間』(フジテレビ系、2005年)の最終回で、寺尾聰が「よう」という台詞を「やあ」に変えたことがあった。ニュアンスを軽視されたショックから、それ以来、倉本氏は寺尾を起用しなくなったという。倉本氏の一字一句への強いこだわりを感じさせるエピソードだ。
しかし、そのこだわりが騒動に発展したこともあった。1974年放送のNHK大河ドラマ『勝海舟』では、脚本家の演出領域への関与の是非をめぐって問題がこじれ、倉本氏は脚本を途中降板した。大河ドラマ脚本家の降板劇は当時、大きく報じられ、倉本氏も批判された。
◇リアルさを追求
倉本氏が北海道・富良野市に移住したのは、この降板劇から3年後、1977年のことだった。倉本氏が住むと決めた場所は荒れた森で、電気はなく、水は自力で沢から引いた。倉本氏の代表作『北の国から』には、こうした体験がふんだんに盛り込まれている。
「『北の国から』の主人公・黒板五郎がしたことは、倉本先生自身が実際に行ってみたことが多い。倉本脚本は頭の中だけで組み立てたものを物語にしたわけじゃないから、リアルなんです。
特におもしろいと思ったエピソードは、子供の純と蛍が一輪車に石を積んで運ぶシーンです。制作側は子供に無理をさせず、重そうに運ぶ絵が撮れたらいいと、藁を上げ底にしてテレビに映るところだけに石を積んでいた。でも倉本先生はそれを却下して、山盛りの石を運ばせました。2人は石の重さでバランスが取れずに一輪車を倒し、石が落ちると積み直してまた運んで…。これがリアルなんです。
しかし純役の吉岡秀隆さんはつらかったんでしょうね。台本の裏に、“(監督の)杉田死ね! 倉本死ね!”と書いていました(笑い)。純は東京にいるお母さんのもとに帰りたいわけですが、吉岡さんも演技だけではなく、純と同じ気持ちだったのでしょう。ドラマ全体が、そうやってリアルになっているのです」
本読みだけでなく、撮影現場にも細かく立ち会っていたからこそリアリティあふれる数々の名シーンが生まれたと言えそうだ。
◇疑似恋愛の脚本パワー