漫画家としてデビューし、多方面で活躍したさかもと未明氏(53)が、膠原病の罹患を公表し、事実上の「活動休止」となったのは2009年のこと。その後、表舞台に立つこともなく、死をも覚悟する日々が続いたが、現在は画家として新たな道を歩み始めている。闘病生活、結婚、友人との別離を経て、光を見出すまでの物語を、さかもと氏自身が綴った。
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「私はもうすぐ死ぬのだろうか」──そう思って、当時滞在していたホテル椿山荘の窓から庭を眺めていたのは、2011年の春頃だろうか。私は24歳の1989年からずっと漫画家として仕事をしてきたが、不摂生や過労がたたったのか、2006年に難病といわれる「膠原病」(*)を発症した。
【*膠原病:関節リウマチ、全身性エリトマトーデスなど、腫れやこわばり、痛みを引き起こす疾患の総称】
2008年に難病認定を受け投薬治療を開始したもの、一向に良くならず、ついには自力で歩いたり、水の入ったコップをもち上げたりすることも難しくなり、2009年、ちょうどデビュー20年目にして難病罹患を公表するに至った。事実上「描く」いうことができない状態で、漫画家としての「休業宣言」であったが、仕事をすべてあきらめたくはなかった。また当時、独身で家族とも疎遠だったため、生活するためには自分が働かないわけにはいかなかった。私はCD発売を企画し、歌手としての再出発を目指していた。
しかし、そのころの私の体調を心配してくれ、親切にしてくれていた医師の家族との間にトラブルが起こり、デビューして間もなかった歌手活動の出鼻はくじかれた。
後にその医師は私の夫となるが、2011年当時はまだ交際もしていない状態。しかし、私の仕事を奪った原因になった責任を感じ、サポートを申し入れてくれた。私は余命宣告に近い診断を受けていたため、「もしそう遠くない未来に命が尽きるなら、貯金が尽きるまででもいいから、憧れだったホテルで過ごしたい」と思い、彼の援助もありがたく受けて、東京・目白にある庭園の素晴らしいホテル椿山荘東京(当時はフォーシーズンズホテル椿山荘東京)に移り住んだ。
私は1日のほとんどを眠って過ごし、そして時々目を覚ましては、日に当たらないように(膠原病患者にとって日光は大敵とされる)、レースのカーテン越しに庭園の美しさを楽しんだ。その冬は時々積雪があって白銀も美しく、冬のさなかにも椿が見事で、色を失うことのない庭だった。春になれば河津桜、次いでソメイヨシノ、そして若葉から新緑、常夏の鯉緑へと変わる緑に毎日どれだけ癒されたか知れなかった。
しかし、美しい景色を見るほどに、私の両目からは涙が止まらなかった。「こんなに美しい世界にも、もうすぐ別れを告げなくてはならないのだろうか」と。