しかし同時に僕が柄谷の柳田論にやや困惑するのは、「固有信仰」への柄谷の傾斜だ。僕と千葉の柳田論には、柳田の「固有信仰」に関する理解が不在だと批判されたことさえあるが、柳田という人は自身のロマン主義を唯物論的に起克しようとして迷走してきた人だ。それは、僕と、とうに故人の僕の師の共通の柳田論だ。「固有信仰」論は柳田の中で繰り返されるロマン主義的揺り戻しである。山人論も同様だ。しかし、そこから人類史を読みとってしまう柄谷はやはり「文学」の人だと思う。
僕は柳田の学問を主権者教育の社会運動(公民の民俗学)として評価するから、「固有信仰」論的思考は「文学」の問題でしかない。恐らく、柄谷は柳田の中から「運動」は読みとりたくないのだと思うが、憲法の「意識」化(いわば「固有信仰」化)を語る柄谷と、死の間際「憲法の芽をはやさねば」と呻くように未完の運動への無念を語った柳田の「憲法」論の違いが、本書とは別に今一番興味深くもある。
※週刊ポスト2019年4月19日号