「平成」も残すところあとわずか。父である天皇陛下から時代を受け継ぐ徳仁皇太子殿下の胸中には、今、どのような思いが秘められているだろうか──。“令和の象徴”である新天皇となる皇太子さまの結婚と、その後を振り返る。
昭和天皇が崩御され、昭和から平成に移った日本。再び明るいニュースで喜びに包まれたのは1993年6月のことだ。皇太子さまと雅子さまのご成婚パレードが行われ、沿道に詰めかけた約19万人の国民が皇太子ご夫妻を祝福した。
外務省の研修生だった雅子さまと皇太子さまが初めて出会われたのは結婚より5年前。《控えめでありながら聡明で、話していて楽しい人》。皇太子さまは、雅子さまに対して、第一印象から好感を持たれていた。皇室ジャーナリストの神田秀一さんは、当時の盛り上がりを振り返る。
「おふたりは1992年に再会されますが、当時はメディアが皇太子妃候補について、あれやこれやと過熱報道を繰り返していました。皇太子さまは側近が運転するワゴンに身を隠しながら赤坂御用地を出発し、極秘で雅子さまとデートをなされていた。おふたりの交際を知っていたのは、宮内庁でもごくわずかでした」
同年の10月、皇太子さまは雅子さまにこうプロポーズされた。
《皇室に入られるということには、いろいろな不安やご心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは、ぼくが一生全力でお守りしますから》
結婚にためらいを抱いていた雅子さまだったが、皇太子さまの真っすぐな思いがハートを射止めた。
世紀のロイヤルウエディングから1か月後に開かれた東京サミットの宮中晩餐会では、若草色のイブニングドレスをまとった雅子さまが英、仏、独語を駆使して各国の首脳をもてなし、皇室の国際親善に新しい風を吹かせた。
「ご結婚後は、おふたりで各国を公式訪問されました。雅子さまの元外交官の経験を存分に生かし、誰もが皇太子ご夫妻の順風満帆な未来を信じていました。しかし、世継ぎ問題が浮上してから、風向きは厳しいものへと変わっていきました」(前出・神田さん)
1999年12月には、朝日新聞が「雅子さま懐妊の兆候」と一面トップで報じ、日本中が大騒ぎになった。
「それから間もなく、雅子さまは流産され、皇太子さまは翌年の誕生日会見で報道に対して『誠に遺憾である』と非難されました。皇太子さまが、これほど強い表現をされるのは異例のことでした。この一件から、情報を漏らした宮内庁と皇太子ご夫妻の間には、溝ができたとされます」(皇室記者)
そして、待望の第1子となる愛子さまが2001年12月1日に誕生される。幸せなニュースに日本中が歓喜したが、雅子さまの心労は重なる。
「出産後、雅子さまは1年ほどの産休を望まれました。しかし、宮内庁は美智子さまが出産後8週間で公務に復帰した前例をもとに要求を拒み、わずか2か月の産休しか認めませんでした。第2子にも恵まれず、湯浅利夫宮内庁長官の『秋篠宮さまのお考えはあると思うが、皇室の将来を考えると3人目を強く希望したい』という発言もあった。雅子さまが心身を崩されるのは、無理もない状況でした」(前出・皇室記者)
2003年12月に宮内庁病院で帯状疱疹と診断されて入院して以降、雅子さまは長い療養生活に入ることとなる。そして、翌2004年5月、欧州訪問を控えた記者会見で、皇太子さまは衝撃の発言をされた。
《雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です》
それから2か月後、雅子さまが「適応障害」と診断されたと宮内庁が発表した。