昨年の紅白歌合戦で松田聖子は『風立ちぬ』(1981年)、『ハートのイアリング』(1984年)、『天国のキッス』(1983年)、『渚のバルコニー』(1982年)をメドレーで披露し、往時を知る視聴者を狂喜させた。今なお現役で活躍を続ける稀代のスターはいかにして誕生したのか。彼女を発掘し、1980年代の楽曲のほとんどをプロデュースした若松宗雄氏が語る。
「きっかけはCBS・ソニーと集英社が主催したオーディションでした。各地区大会に出場した人のカセットテープを片っ端から聴いていたら、その中に桜田淳子の『気まぐれヴィーナス』を歌う聖子のテープがあった。聴いた瞬間、とんでもなくいい声に出会ったと思いました。彼女の伸びやかで透明感のある歌声には、聴く者の心を捉える感性があったんです」
若松氏はすぐに本人と面談。ルックスや育ちの良さにも惹かれてスカウトするが、父親の猛反対や所属事務所の事情もあって、デビューまでに2年の歳月を要することになる。久留米出身の少女が念願の歌手になれたのは1980年春のことであった。
「デビュー曲『裸足の季節』の作曲は、私が気に入っていた『アメリカン・フィーリング』(サーカス)を手掛けていた小田裕一郎さんにお願いしました。聖子にはオケ録りの段階から立ち会わせましたが、メロディを2~3回聴けば覚えてしまうくらい、呑み込みが早かったですね」
◆ずば抜けていた歌に対する執念