のちに「花の82年組」と呼ばれるアイドルの1人としてデビューしながら、女優やエッセイストとしての才能も開花させ、現在は演劇プロデューサーとしても活躍する小泉今日子。その小泉がブレイクするきっかけを作ったのが、デビュー2年目から担当した元ビクターの田村充義氏だった。
「当時の小泉さんはトップ10に入るヒットも出ていて、女性アイドルでは5番手グループくらい。そうした状況で前任者の敷いた路線を継続すべきかどうか、最初は悩みました。でも『担当が変わった以上、新しいことをやっていかなくては』と思い、まずは5番手から3番手にすることを考えたんです」
1983年のアイドルシーンは松田聖子と中森明菜が2トップ。田村氏はその次を狙ったわけだ。
「当時の流行り言葉でいうと“良い子悪い子普通の子”の“普通の子”のポジションです。でも普通の子はいろいろなことをやらないと注目されない。ほかのアイドルと同じことをしていたら3番手にはなれませんから、常に変化を持たせて目立つことを考えました」
時を同じくして小泉は自らの意思で「聖子ちゃんカット」からショートヘアに変身。当時17歳のキョンキョンは自発的なアイドルとして注目され始める。
「僕は『音楽は時代とともにある』という考えを持っているんですが、小泉さんを担当した80年代はコピーライターの糸井重里さんたちが活躍していたキャッチコピーの時代。ですから、彼女を目立たせるには遊び心のある言葉で存在感を示すのがいいんじゃないかと考えたわけです。その第1弾が『まっ赤な女の子』で、その後も初期のシングルA面のタイトルはインパクトを重視した小泉今日子のキャッチコピー風タイトルにしました」