1961年には7万1080か所あったのが、2017年には3万3250か所と50年でほぼ半減している踏切。人が暮らす場所に鉄道が通る限り、避けては通れないはずの「踏切」に魅せられ『踏切天国』という著書もあるライターの小川裕夫氏が、踏切への愛と、全国に残るユニークな踏切を紹介する。
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2010年に『踏切天国』(秀和システム)を上梓してから、まもなく10年になろうとしている。毎年、大量の鉄道本が出版される。そのなかでも踏切というニッチな分野を取り上げているので、それほど売れ行きはよくない。
ただ、踏切という珍しいジャンルでもあるため、定期的に社会問題として浮上する“開かずの踏切”において、踏切の専門家として頻繁にコメントを求められるようになった。また、“マニアさん大集合!”といった趣旨のテレビ・ラジオ番組に呼ばれることも珍しくない。
鉄道マニアは数が多く、世間的な認知度も高い。ところが鉄道ファンの間でも、踏切は車両や駅舎といった数ある鉄道施設の中でもとりわけ注目されることがなかった。
踏切に執着することは、かなり珍しい鉄道マニアとして扱われる。鉄道ファンが踏切に執着しない理由は判然としない。「なぜ、踏切に興味がないのか?」と質問したところで、相手からは奇妙な生物を見るような眼差しで「どうして踏切に興味があるのか?」と逆質問されてしまうのがオチだ。
踏切に興味を示さないどころか、視野にも入っていない。そのために経験則からの推測という前提になってしまうのだが、鉄道マニアが踏切に興味を示さない理由は、配色が黄・黒で統一されていて形状もほぼ同一だから、ということになるらしい。
鉄道に興味がない人にとって、山手線で走っている車両がE233系だろうがE235系だろうが気にしないし、何が違っているのかわからない。そもそも、知る気すらおこらない。
一般人には些細なことに見える違いが、鉄道マニアを熱中させる一因でもある。
翻って、踏切は事故防止の観点からデザインに変化を持たすことができない。仮に、デザイナーやアーティストなどを起用して芸術性の高い踏切が設置されたとする。踏切を渡る歩行者や自動車の運転手が、その設置物を踏切だと認識できなければ事故は多発してしまう。安全を優先すれば、踏切はデザインにこだわる必要はまったくない。だから、踏切は替わり映えしない。どれも同じような外観になる。
しかし、全国各地の踏切を探訪して踏切をじっくりと見比べてみると、同じような踏切でも実は微妙に異なっていることに気づく。その要因は、地形だったり、周辺環境だったり、走ってくる列車によるものだったり、技術の進化による安全性向上だったりと多種多様だ。
全国の踏切を巡るようになってから、踏切の些細な違いにも気づくようになった。だが、こうした踏切の違いを知ったところで話をする相手はいない。
鉄道マニアは集団で行動すると言われる。昨今、マナーを守らない撮り鉄が批判の槍玉にあがるのを目にする。彼らも2~3人、多いときは10人以上で行動している。しかし、踏切探訪はいつも一人。孤独な旅だ。
鉄道マニアからでさえ理解されているとは言い難い踏切だが、世の中には捨てる神あれば拾う神もいる。例えば、鉄道の業界誌では開かずの踏切をどうするか? といった問題を真剣に議論していて、そうした雑誌から寄稿してほしいという声がかかることもある。