新皇后となられた雅子さま(55才)。誰もがうらやむエリート街道を歩まれてきたが、皇太子妃となってからは苦難も続いた。
待望の第1子である愛子さまが誕生したのは2001年のこと。ご成婚から8年目のことだった。
順調な育児ぶりをうかがわせた雅子さまだが、事態が急変する。2003年12月、体調を崩された雅子さまは帯状疱疹と診断され宮内庁病院に入院し、長期療養に入られた。翌年5月、欧州3か国訪問前の記者会見で天皇陛下は、衝撃的な発言をされた。
《それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です》
2か月後、宮内庁は雅子さまが「適応障害」であることを発表した。
かつて雅子さまと同じく民間から皇室に入られた上皇后美智子さまも、天皇陛下と秋篠宮さまの育児などで新風を吹かそうとして強固な反対に遭われた。
華々しいキャリアを誇り、皇太子妃となってからもユーモアと気遣いを忘れなかった雅子さまを長期療養に追い込んだのは何だったのか。精神科医の香山リカさんは、「ご成婚時から心配はあった」と振り返る。
「均等法の施行後、女性の社会進出のシンボルのような雅子さまが、古いしきたりのある皇室に嫁ぐことには期待と不安の両面がありました。
当初は雅子さまのキャリアが皇室の国際親善に生かされましたが、次第にファッションやしぐさ、表情ばかりが世の中から注目されるようになり、肝心の“何をされているのか”が顧みられなくなった。
それまで学力やキャリアを評価されてきた雅子さまが皇太子妃の役割をこなそうと懸命に努力されても、実力ではなく容姿やファッションばかり取り沙汰されたことには、相当な戸惑いを感じられたはずです」
最大の重圧となったのが「お世継ぎ」の期待だ。
「ご結婚3年目あたりから宮内庁内部で『そろそろお世継ぎを』の声が増し、雅子さまが望まれた海外訪問をストップする動きが出始めました。海外の首脳などが『ぜひ皇太子夫妻のご訪問を』と希望しても宮内庁は“NO”を貫いた。皇族になられてからも海外訪問に期待を寄せられた雅子さまとしては、内心忸怩たる思いだったはずです」(皇室記者)
ご成婚から6年半が経った1999年12月には朝日新聞が一面トップで「懐妊の兆候」を報じた。しかし同年末、雅子さまは流産された。