1935年、京都に生まれた浜村は、近所で時代劇の撮影が行なわれる環境で育ち、幼少期から映画に魅せられたという。10歳で終戦を迎えると、ラジオから流れる音楽番組やラジオドラマにも夢中になった。地元の同志社大学に進学すると放送部に所属。校内でジャズや映画の解説をしていたところ評判を呼び、次第にジャズ喫茶やラジオ局から声がかかるようになる。
「ジャズ喫茶というと今でいうライブハウス。当時はテレビも普及していないし娯楽も少ないから、生歌を聴くのが一種のブームでした。淡谷のり子さんのライブで司会をしたところ、気に入ってくださって、『音楽の本を買って勉強してね』と特別に1000円もいただいたことがあります。今で2万円程の価値になるでしょうか。ありがたかったですね。そのお金で買ったジャズの解説本は、大切にとってあります」
ならばと卒業後に上京、テレビの歌番組に司会者として呼ばれたこともあるが、上手くはいかなかった。
「最近は関西出身の芸人が東京で活躍していますが、当時、全国放送での関西訛りは受け入れられませんでした。標準語を話してみても、やはりお国言葉じゃないですから。自分らしく、自由にしゃべれませんでしたね」
10年と経たずに関西に戻った浜村は、再びジャズ喫茶やラジオ局で解説を始めた。なかでも「ジャズ喫茶はいい経験になった」という。
「テレビと違い、お客さんの反応がその場で返ってきます。特に大阪のお客さんは厳しくて、『単なるジャズの解説では30分ももたへん。1000円払うたら1000円分笑わせてくれんと承知せんで』と言われました(笑い)」