今でこそ全国に行商専用列車は近鉄の鮮魚列車を残すのみとなったが、かつては全国各地に存在した。現在の首都圏では行商専用列車、専用車両ともに廃止となっている。ライターの小川裕夫氏が、行商列車の誕生から消滅まで、今も行商向けに定期手回り品切符を発行する京成電鉄を中心にレポートする。
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6月2日、クラブツーリズムが主催する鮮魚列車ツアーが催行された。伊勢志摩魚行商組合連合会による貸し切りという形で近畿日本鉄道(近鉄)が運行している鮮魚列車に、一般客は乗車できない。
鮮魚列車は月曜~土曜まで運行されているが、日曜日は運休する。クラブツーリズムが鮮魚列車ツアーを催行できた背景には、鮮魚列車の運休日だったことが理由に挙げられる。
近鉄が運行する鮮魚列車は、三重県の宇治山田駅と大阪府の大阪上本町駅とを結ぶ。現在、国内で運行されている行商人の専用列車は、この鮮魚列車を残すのみとなっている。クラブツーリズムのツアーは鮮魚列車を観光のコンテンツとして再活用するものだが、歴史として記録に残すという側面も併せ持つ。
流通機構の確立、道路の整備が進んだことによるトラック輸送の普及などの要因もあって、行商は日常風景から消えた。
鮮魚列車をはじめとする行商専用列車は、日本各地で盛んに運行されていた。それは首都・東京も例外ではなかった。実際、京成電鉄(京成)は2013年まで行商人専用車を運行していた。
行商人が乗車する専用列車は、京成では“嵩高荷物(かさだかにもつ)専用列車”という正式名称がつけられている。
「京成では嵩高荷物専用列車を1935年から運行していました。当時は、1編成まるまる行商人だけが乗車する、行商専用列車としての運行です。最盛期には1日4往復が運転され、京成上野駅方面と押上駅方面に向かう2種類がありました」と説明するのは京成の広報・CSR担当者だ。
東京の行商人たちの大半は、千葉県・茨城県から来ていた。東京で野菜を売り歩けば儲かると評判が広まり、大正末期から昭和初期には千葉県・茨城県の農家はこぞって行商で荒稼ぎするようになる。
1930年頃から、行商人は急増。その背景には昭和恐慌があった。昭和恐慌によって、地方では働き口がなくなったからだ。農業だったら、自力で生計を立てられる。そうした事情から行商が奨励された。実際、行商人たちの稼ぎはすさまじく、納税額も突出していた。
そのため、朝のラッシュ時には通勤電車に多くの行商人たちでごったがえすようになる。
通勤するビジネスマンと行商人の混乗は、トラブルも頻発した。しかし、行政当局にとって行商人は優良納税者、鉄道会社にとっても優良の大口顧客だった。そうした理由から、行商人は黙認された。
一時代を築いた行商人と行商列車だったが、京成では利用者が減少したことを理由に1982年に専用列車は廃止。その後は、一般車両の最後尾一両を”行商専用車”として運行した。そして、1998年に押上駅方面の専用車が廃止になり、2013年には京成上野駅方面の専用車両も廃止される。こうして、京成から行商列車は姿を消した。