巨人・岡本和真の打棒が復活しはじめたように見える。開幕から4番を任されてきたが、波に乗り切れず、6月4日の楽天戦では6番に降格。その時、原辰徳監督は「少し精神的に楽なところで岡本を打席に立たせたいと。(中略)ややビッグベイビーが困っているかなというところで、少し助けてあげようかと。勇人、丸、頼むぜ!というところだね」(スポーツ報知・2019年6月5日付)と説明した。4番から外れた岡本は3戦連続マルチ安打を記録し、7日のロッテ戦では4番に復帰。原監督の配慮が復調の手助けとなったようだ。
思い返せば、原監督は現役時代、『巨人の4番』の重圧に最も耐えてきた選手だった。巨人軍球団創立50周年の1984年、絶不調の原が4番を外された時の状況をライターの岡野誠氏が当時の文献から読み解く。(文中敬称略)
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長嶋茂雄が監督を追われ、王貞治が現役引退を発表。1980年オフ、巨人には激震が走っていた。その年のドラフト会議で、原辰徳は4球団から1位指名を受ける。競合の末、藤田元司監督がクジを引き当て、念願の巨人入りを果たした。
ONの抜けた直後に入団した原への期待は大きかった。1年目の1981年、原辰徳は2割6分8厘、22本塁打、67打点で新人王に輝き、巨人8年ぶりの日本一に貢献した。2年目の1982年6月4日には初の4番に座る。この年、33本塁打、92打点と成績も上昇。1983年には130試合中107試合で4番を務め、チームを優勝に導き、MVPと打点王に輝いた。
その年のオフ、王貞治が監督に就任。球団創立50周年を迎える1984年、読売新聞が主催する秋の日米野球では、前年の1983年にワールドシリーズを制覇したボルティモア・オリオールズと1984年の日本シリーズ勝者との対戦日程が組まれた。