沿線では約半世紀ぶりとなる新駅「高輪ゲートウェイ」の開業を来春に控え、注目が集まる山手線。未来ばかりに目が向きがちだが、実は山手線には知られざる「鉄道遺産」が多く眠っているという。早稲田大学鉄道研究会によるレポート第3弾は、その「山手線の秘密」──。
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「山手線」といえば東京の顔ともいえる電車路線だ。日常的に利用する方もたくさんいるだろう。さて、そのとき目線はどこを向いているだろうか。スマホ? ドア上のディスプレイ? 今回は窓の外に注目してみようと思う。
山手線は、都市の電車というイメージがあるが、新幹線や郊外の新しい鉄道のように、近代的な高架橋の上を走っているわけではない。むしろ土手の上や掘割の底といった、地方のローカル線でよく見られるような土構造物(土や岩石などを材料にした構造物)の上を走る区間が多い。
なぜ山手線という日本を代表する都市鉄道が、土地が貴重な都心でこのようにぜいたくな土地の使い方をしているのだろうか? 謎を解くカギは明治・大正の先人の遺産にある。
◆環状の山手線が完成するまで半世紀かかった
まずは、山手線の路線がどのように形成されてきたのかをかいつまんで説明してみようと思う。
明治5年(1872)、日本初の鉄道路線(新橋~横浜間)の開業とともに品川駅が開業。翌年には私企業である「日本鉄道」が上野~熊谷間を開業した。このときの上野~田端の区間が、後に山手線になる(田端駅の開業は明治29年(1896))。
明治18年(1885)には、同じく日本鉄道により「品川線」(品川~赤羽間)が開業する。旅客営業も行ってはいたが、横浜~品川の官設鉄道とすでに開業していた「東北線」を連絡し、横浜港に陸揚げされた鉄道建設資材や輸入品を東北方面へ、群馬県などの産地から生糸などの輸出品を横浜港へ、それぞれ輸送することが主目的であった。
日本鉄道はその後、物流拠点であった秋葉原~上野を貨物線として(明治23年(1890))、池袋~田端間を「豊島線」として開業した(明治37年(1904))。この豊島線と品川線が統合されて「山手線」となったが、明治39年(1906)の日本鉄道国有化により、山手線は鉄道院管理下の国有鉄道となった。