半年後、もうロックを諦めて学業に専念しようと考えていた時、大阪の「ナンバ一番」で知り合ったパロッツのリーダーでドラマーの井上シゲルと再会。「バンドが東京のカーナビーツの事務所に所属が決まったが、ボーカルが抜けることになって困っている。やってもらえないか?」と言われ、OKと伝えました。
5人編成のバンドはザ・キャンディーズと名前を新たにして、中馬込の壊れそうな一軒家で合宿生活を開始。そして1968年11月に御徒町の「東京」というジャズ喫茶でザ・ライオンズを対バンに上々の東京デビューを飾りました。キャンディーズは1969年に入っても「銀座ACB」、「新宿ACB」、「ドラム」、「新宿ラセーヌ」など都内のジャズ喫茶を中心にライブをこなし、ファンも順調に増えていきました。
◆GSの斜陽を感じた1969年9月「涙のライブ」
しかし、3月頃にカーナビーツのボーカルだった臼井啓吉さんがグループを脱退することになり、事務所から僕にカーナビーツのボーカルをやってもらいたい、そしてモッチン(アイ高野)と一緒に頑張ってほしい、と言われました。その後キャンディーズのメンバーにも説明があったが、リーダーのシゲルが「俺も辞める」と言葉を放った不機嫌な表情が忘れられません。
1969年5月から僕はカーナビーツの正式なメンバーとなり、アイ高野、越川弘志、喜多村次郎、岡忠夫と共に活動を続けました。しかしこの前年くらいから、GSシーンには斜陽の影が色濃くなりました。