【書評】『荷風と玉の井 「ぬけられます」の修辞学』/嶋田直哉・著/論創社/2200円+税
【評者】川本三郎(評論家)
永井荷風人気は生誕百四十年、没後六十年になる今も衰えない。荷風といえば小説では、『ぼく東綺譚(「ぼく」はさんずいに「墨」)』がまず挙がる。この作品については実に多くの本が書かれてきた。もう語り尽されたと思うが、本書は敢えてこれに挑戦。新しい『ぼく東綺譚』論を提示する。
『ぼく東綺譚』は言うまでもなく荷風自身を思わせる「わたくし」が昭和十年代、東京の私娼窟でも最低と言われた隅田川の向こう、向島の玉の井へ行き、そこで思いもかけず心延えのいい娼婦「お雪」に出会い、惹かれてゆく物語。悪所を描きながら詩情豊か。
この作品には必ずといっていいほどの批判がついてまわる。金で女を買うとは何事かという女性からの批判もさることながら、山の手に住む高等遊民が場末の娼婦をもてあそんだだけではないのかという倫理的な批判。著者は『ぼく東綺譚』のよさを認めながらも、このふたつの批判をどう受け止めるかで悪戦苦闘する。
玉の井は私娼窟だったことは否定しえない。荷風はそれを美化した。「お雪」を「ミューズ」に仕立てた。実際の玉の井はどうだったのか。著者は、当時書かれたさまざまなルポルタージュを資料として駆使しながら、まず玉の井の惨状を明らかにしていく。