【書評】『むらさきのスカートの女』/今村夏子・著/朝日新聞出版/1300円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
狂っているのは、語るものか、語られるものか? 読み手によって、相貌を百八十度変え得る作品だ。
ある町に、「むらさきのスカートの女」(以下「むらさき」)と語り手が呼ぶ女性がいる。安アパートに住み、パートの職を転々としているが、語り手にして自称「黄色いカーディガンの女」(以下「黄色」)は、彼女が気になって仕方がない。
彼女が誰かに似ていると言って、姉や小学校の友人やTVのコメンテーターやレジ係などを挙げまくるのだが、要は誰を見ても彼女に見えるぐらい固着しているのではないか。「むらさき」は「黄色」が勤める清掃会社に採用されるのだが……。
冒頭近く、「むらさきのスカートの女は、一週間に一度くらいの割合で、商店街のパン屋にクリームパンを買いに行く。わたしはいつも、パンを選ぶふりをしてむらさきのスカートの女の容姿を観察している」とある。もうここだけでおかしいと思う人は思うだろう。
尾けてでもいない限り、こんなことはできない。けれど、あまりにも当然のように書いてあるから、気づかないのだ。この文体が今村の大きな武器で、あとから破壊的な効果を生む。たとえば、「『黄色』は突如、暴力衝動がおきて『むらさき』に体当たりをしようとするが、何度も失敗した挙句に店のショーケースを大破した」などと書いてあれば、この人の異様さがわかるだろう。