7月13日、『中居正広のニュースな会』(テレビ朝日系)で中居正広が「トークのスキルを最初に見出してくれたのがジャニーさんだった」「“細かいことを積み重ねなさい”と勉強させてもらいました」と7月9日に亡くなったジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長への感謝を述べた。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の中で、ジャニー氏に関する秘話も豊富に綴っているライターの岡野誠氏が2人の共通点を考察する。
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人は、何かと“自分のほうが優れている”とアピールしたくなるもの。後輩ができると講釈を垂れ、「俺たちの頃は」と口癖のように話す人もいる。だが、本当に話を聞きたくなる人ほど、自分から何かを語ることはない。
ジャニー喜多川氏は自伝の出版をしないまま、生涯を終えた。そんな彼の哲学とは何だったのか。これまで残した言葉を読んでいくと、ある傾向が浮かび上がってくる。
1970年代後半に低迷していたジャニーズ事務所を、再興させたのは田原俊彦、近藤真彦、野村義男の3人だった。彼らは、1979年の『3年B組金八先生』(TBS系)の生徒役をきっかけにブレイク。1980年6月21日に田原俊彦が『哀愁でいと』、12月12日に近藤真彦が『スニーカーぶる~す』で歌手デビューし、ヒットチャートを席巻していく。3人が“たのきんトリオ”として、映画『グッドラックLOVE』をヒットさせていた頃、ジャニー氏はこう語っていた。
〈これからのことはよく聞かれるんですが、彼等はまだ20才前ですから10年後のビジョンはもちろん2~3年後のプランも今はありません。というのも今、現実にあることを精一杯やるという姿勢をあの子達に教えられたんです〉(コンフィデンス・1982年1月11日号)