イチローや上原浩治が現役から退いたように、40代になれば超一流アスリートも引退の決断を迫られる。一方で、芸能人は生涯現役で居続けなければならない。デビュー40周年を迎えた田原俊彦は58歳になった今も、20代の頃のヒット曲をほぼ同じ振付で歌って踊る。過酷な職業だと思うことはないか。
「だって、ステージが好きだからね。生きていくために仕事は継続しなきゃいけないし、厳しい時代だってライブが生きる道と信じて走り続けてきた。20代の頃と比べて衰えているかもしれないけど、50代には50代の見せ方がある。常に全力で挑んでいるよ」(田原・以下同)
1976年8月、田原は地元・甲府から先日逝去したジャニー喜多川氏の元に、ジャニーズ事務所入所の直談判に赴く。翌週からレッスン参加を許され、高校卒業後の1979年『3年B組金八先生』(TBS系)に生徒役として出演。翌年6月『哀愁でいと』で歌手デビューし、1970年代後半に低迷していたジャニーズ事務所の救世主となった。
「ジャニーさんは命がけで田原俊彦を作ったからね。ライブの構成も曲順を決めるだけでなく、バンドが音を止めたり、僕が動き出したりするタイミングまで細かく指示していた。事務所から衣装も運んでいたよ(笑い)。すごく厳しい人で、自分で今日は良かったと思っても、『あの場面はワンテンポ早かった』とダメ出しされたね。僕はジャニーさんの最高傑作になりたかった」
ジャニー氏は、常に世界の最先端を取り入れた。1983年5月16日、マイケル・ジャクソンが初めてムーンウォークした番組が全米で放送されると、すぐに映像を入手。田原は合宿所で毎晩見て、練習に励んだのだろう。6月30日の『ザ・ベストテン』(TBS系)で、日本人として初めてその技を披露した。
「僕より少年隊の錦織や東山のほうがマイケルのビデオを見ていたよ。植草は寝ていたけど(笑い)」