吉本芸人の闇営業問題は、芸能界と反社との関係性を改めて浮き彫りにしたとされる。だが、「あんなスケールの小さい男たちと一緒にしてもらっては困る」という声もある。勝新太郎さんを「先生」と呼んで慕った元山口組直参組長・天野洋志穂(よしお)氏(79)に高倉健さんら昭和の名優たちとの思い出を聞いた。ジャーナリストの伊藤博敏氏がリポートする。
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天野にとって勝は、「人生の所作」を教えてくれた大事な兄で先生だが、一方で「ヤクザの所作」を教えてくれたのは三代目山口組最高幹部だった「ボンノ」こと菅谷政雄・菅谷組組長だった。
最初の懲役を終え、賭場に出入りしていた天野の豪快な賭けっぷりが気に入った菅谷は、1969年頃からなにかと目をかけるようになり、1971年、正式に盃を与えて若中(直参)とした。当時、菅谷組は隆盛を誇った三代目山口組の中核部隊だった。
少年時代、あまりの素行の悪さに、近所の寺の住職が、「煩悩をいさめよ!」と、怒鳴ったことから「ボンノ」と呼ばれるようになり、本人も気に入ったのか、初対面の相手には「ボンノだす」と、挨拶していた。
組員が声を掛ける時は「親分」ではなく「ボス」。洋画とジャズを愛し、リンカーン・コンチネンタルに乗り、ハットを被って仕立てのいいスーツを着たかと思えば、ジーンズもはきこなす洒落者だった。
菅谷が、「遊び仲間」として付き合ったのが映画プロデューサーの俊藤浩滋(しゅんどうこうじ)だった。菅谷とともに戦前、地元神戸の賭場に出入りしていた俊藤は、戦後は菅谷グループの一員として暴れる。その後、東映京都撮影所の岡田茂所長(後に社長)と知り合い、独特の人脈と交渉力を買われ東映のプロデューサーになった。俊藤が頼った菅谷はまさに東映の「顔役」だった。