勝新太郎さんや高倉健さんなど、名だたる昭和スターたちと交友を重ねた元山口組直参組長・天野洋志穂(よしお)氏(79)は、「所作」という言葉をしきりに口にする。ふるまいや身のこなしだけでなく、「人としての生き方」も含ませて使っている。大スター鶴田浩二さんとの思い出、そしてその後は芸能界との付き合いを完全に断った理由について聞いた。ジャーナリストの伊藤博敏氏がリポートする。
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天野は大スター、鶴田浩二とも交流があった。鶴田は1987年、肺がんで62歳の若さで死去するが、天野は、その「死」を予言している。
「ブラジルを訪問していた鶴さんの慰労会が天ぷら屋であり、『あまちゃんも来いへんか』と、誘われて行ったら、俊藤(※浩磁氏。東映のプロデューサー)さん、鶴さんの事務所の社長、文ちゃん(※菅原文太氏)なんかがおったんや。鶴さんは元気で、『1週間で(女を)13人抱いたぞ!』とか、本当かウソかわからん話で盛り上がった。
ただ、わしには鶴さんの調子が悪そうに見えた。そこで、事務所の社長と文ちゃんと3人で帰る時、『鶴さん、死相が出とった』と正直にいうたら、文ちゃんが『あんなに元気やないか』って。でも、1か月後ぐらいに社長からの電話で、『もうあかんねん。肺を開けたらみんな転移してしもうて』と。『あまちゃん、どうしてわかったん』と、いわれた」
付き合えば「一生もの」である。損得、貸借ではないから続く。天野は、芸能人と付き合うことに自分なりの一線を引き、一緒に酒を飲むときは店に人払いさせる、新幹線などで会っても自分から声をかけるのは控えるなど、その関係が表に出ないように努めた。