終戦から70有余年。旧日本軍人は連合国から「戦犯」として裁かれた。しかし──そのなかには、敵国からも尊敬の念を抱かれた男たちがいた。立場を超えて「畏怖」の対象となった軍人たちの誇り高き足跡を辿る(記事中の肩書きは最終階級)。
戦後ではなく、戦中から友情を育んでいた日米の軍人もいた。太平洋戦争最大の激戦地の一つといわれ、約1200人のうちわずか50人ほどしか生還しなかったパラオ諸島・アンガウル島がその舞台である。
米軍の猛攻撃で瀕死の重傷を負った“不死身の分隊長”こと舩坂弘軍曹は左手に拳銃、右手に手榴弾、さらに全身に5発の手榴弾をくくり付けて、米軍司令部に突撃したが、左頸部を撃ち抜かれて昏倒。米軍に“救出”されるも、意識は丸二日戻らなかった。にもかかわらず、意識を取り戻した後には監視兵の襲撃や、飛行場の爆破を試みたのであった。
この舩坂軍曹の執念を、デービッド・オズボーン元米国大使館・代理大使は「勇敢な活躍」と称賛し、米軍将校としてアンガウル島で戦ったロバート・E・テイラー(マサチューセッツ大学教授)は舩坂軍曹に宛てた手紙で「日本人全体のプライドとして残ること」と評した。そして当時、捕虜の舩坂軍曹を監視し、幾度も脱出を試みる彼を取り押さえながらも決して銃殺はせず、「命を粗末にしてはいけません」と諭したのが、米軍通訳兵のフォレスト・バーノン・クレンショーだった。