「ヤクザもんの社会は差別がない。終戦直後のあの時代でも人間同士の付き合いがある。そういうところがあったから飛び込んだわけですよ」。これは山口組きっての武闘派・柳川組を率いて、最強の在日ヤクザとして恐れられた柳川次郎(本名ヤン・ウォンソク。1991年没)の言葉である。ヤクザには差別がない──。本当にそうだったのか。ジャーナリスト竹中明洋氏が綴る。
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戦後ヤクザ史に残る抗争の一つに明友会事件というものがある。1960年、まだ神戸を拠点とする一勢力だった山口組が、大阪の新興勢力で在日コリアンを中心とした愚連隊・明友会を殲滅した事件である。きっかけはこんな具合である。
「よう、バタヤンやないか。一曲歌ってくれんかいな」
ミナミのクラブ「青い城」で山口組三代目の田岡一雄が歌手の「バタヤン」こと田端義夫らと会食していたところ、同じ店にいた明友会の幹部らが田端に歌うよう強要した。それを制止した田岡の側近らと乱闘に発展してしまう。田岡のメンツを潰された山口組は明友会への報復に乗り出した──。
この明友会潰しには、山口組傘下の各組が大量に投入されたが、なかでも尖兵として最前線で戦うよう命じられたのが、傘下に入ったばかりの柳川組だった。ともに在日を中心とする明友会と柳川組の戦いは同士討ちといってもいい。柳川組の攻勢は凄まじく、3週間もしないうちに明友会会長と、幹部15人が指を詰めて全面降伏した。
大阪府警は殺人や殺人未遂で山口組側の56人を検挙したが、このうち半分近い24人が柳川組の組員だった。この功績によって若頭・地道の舎弟から田岡の直参に昇格した。「殺しの柳川」の異名は日本中に轟くようになる。
しかし、朝鮮半島をルーツとする同胞同士の争いは、在日社会では極めて評判が悪かった。
柳川の側近の一人は、当時の柳川の心境をこう慮る。
「あの事件の時は会長も苦しかったと思いますよ。同じ民族同士、なんで戦わんとならんのかいう思いと、本家の意向にも逆らえんという思い。あの人は、そういう心境をあまり表に出さん人ですけども、相当に悩んだはずですわ」
このときの後悔は、終生、柳川にまとわりついた。それから24年ほど経て、勃発したのが山口組最大の内紛「山一抗争」だ。竹中正久の四代目組長就任にともない、それに反対する組長代行の山本広らが山口組を脱退して、一和会を結成。両派が血で血を洗う抗争を展開した。
既に柳川組を解散し、堅気となっていた柳川は、柳川組の流れを汲む組を中心に、この抗争に関わらないよう説いて回ったという。なぜそのような振る舞いをしたのか。元秘書によれば、背景には明友会事件があるという。
「明友会いうのは、早い話が大阪の朝鮮人の愚連隊です。ここをどうやって叩くかという時に、田岡三代目の姐さんが『朝鮮人同士で闘わせたらいい』いうて柳川組にやらせたという話が柳川さんのもとにまで伝わってきとったのです。柳川さんは姐さんに対する不満をよう言うてました。竹中さんの四代目継承を姐さんが強く推したことが跡目争いの背景にあったと聞き、柳川さんはこの抗争に我慢ならなかったのではないかと思います」